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「宮戸島復興記録 2011-2013」 ゆふいん文化・記録映画祭にて松川賞受賞 [映画と人生]

嬉しい知らせが飛び込んできました。
足掛け4年越しで撮影してきた「宮戸復興の記録 2011~2013」がゆふいん映画祭のゆふいん文化・記録映画祭の最高賞(松川賞)を受賞しました。

ゆふいん文化・記録映画祭公式ページ
http://movie.geocities.jp/nocyufuin/matsukawa/matsukawaprize7.html

以下は上毛新聞の記事、

ゆふいん映画祭上毛記事01.jpg

縁のあった宮城県東松島市宮戸島の東日本大震災前からその後の復興の様子を記録した作品です。

あの2011/3/11・・・
大地震と津波の被害を報道で見て真っ先に考えたのが宮戸は大丈夫かということでした。

この時の顛末、長くなりますが今回記録の意味も含めもう少し詳細に記しておこうと思います。
(関連プログ、http://pangaea-film.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301424811-3

アムールの飯塚監督達と民族無形文化財「えんずのわり」の撮影で宮城県東松島市宮戸島月浜地区を訪れたのが2010年のこと。最終撮影が2011年2月末に行われたその2週間後にあの東日本大震災が襲いました。ここ千葉でも尋常ではない揺れ方で家が壊れると思いましたし、丁度散歩中だった今は亡き父も思わずその場に座り込んだといいます。
テレビなどの報道でその尋常でない様子を目の当りにし、とにかく行かなければいけないという思いにかられ飯塚監督とも連絡をとりあいながら時期を見計らっていました。
宮戸島というように島ではあるのですが数十メートルの橋一本で本土とつながっていました。その橋が崩落し島に渡る手段がなかったからです。
「えんずのわり」で撮影したあの子供達は・・・ジリジリしながらもやっと「宮戸では死者なし」と聞いてほっとできたことが唯一の救いでした。

震災から約3週間後の3月30・31日、自衛隊によって仮設の橋がかけられたという情報が入り何とか島に渡れるという見込みがつき、文化庁時代から宮戸と縁の深い岡村道雄氏・飯塚監督・私の3名で一路宮戸を目指すことになりました。どうせ行くなら支援物資もと思い、報道などで主食は足りているようなので果物がいいだろうと考え、地震後の流通混乱最中、近所のスーパーに頼み込んでデコポンを3ケース確保してもらい積んでいきました。
往路震災の影響で東北自動車道はあちこちが歪んでいて、普段ならあり得ない段差に何度か車体の腹を打ち付けたことが印象に残っています。

宮戸に入る直前の町に野蒜(のびる)地区があるのですが、ここは高台がなく避難が十分出来ずに500人近くの犠牲が出たとのことで、避難所の体育館まで津波が押し寄せ犠牲者が出たということも後で知りました。その風景は一変し住宅が建ち並んでいたあたりは津波で押し流されぽつぽつと残る住宅も一階部分がひどく破壊されたていました。
津波で水没した地面に重機で土を盛って仮に作られた凸凹の道を行きながらその津波の威力と破壊力に呆然とするしかありませんでした。同年の11月に渋谷昶子監督と訪れた際にはがれき処理の真っ最中で野蒜地域は真っ平らの状態。ふと以前東京大空襲のインタビューを数十人に渡り撮っていたせいでしょうか「空襲」というワードが頭をかすめたことが強烈に印象に残っています。
空襲の焼け野原とはこういうものだったのではなかろうか・・・

仮設橋を渡り宮戸へ入ると最初に通るのが里浜地区になります。道路は至る所で盛り上がり、裂けていて対面通行が出来ない箇所も多くありました。
まずは里浜地区を過ぎ、避難所になっていた宮戸小学校へ。
校庭には自衛隊の車両がひしめき、仮設のお風呂テント、教室と体育館には避難した住民、「えんずのわり」でお世話になった縄文歴史博物館の菅原氏などとも再会。
寒さをしのぐため外で焚き火を囲む人々。玄関には支援の物資が堆く積まれていたので持参した果物を提供。丁度食事時で、デコポンがすぐに使われているのを見てやはり果物で正解だったなと感じました。ただ一人にデコポン8等分ほどしか行き渡らず自分の不備とともに被災者の数の多さを思いました。持参したカメラを出し撮影と思ったのですが、被災した方々にカメラを向けていいものか一瞬躊躇。しかし今撮らなければいつ撮るのだと自分を鼓舞して撮影。ただやはり対象に近付けていないしどこか遠慮がちな画になってしまいました。

移動し月浜地区へ入るとそこは想像を超えた破壊に見舞われていました。



この日は高台にあって被災をまぬがれた民宿へ泊めていただくことに。
もちろん3週間経っていてもライフライン(電気・ガス・水道)は復旧しておらず、コンロを含め持ち込んだ食料と水でしのぐ。
翌日、月浜地区の人々が焚き火を囲んで当面のことについて話あっていたのですが、その時に笑顔がこぼれていたのが印象的でした。区長さんに撮影のお願いをしたところ「変なものに使わないでね」と冗談まじりの笑顔で返されました。話し合いの最中皆にもどこかゆとりさえ感じる笑顔がみられ、家はもちろん生活の全てを流され破壊されながらも笑顔になれる人間の強さに感動しました。
プロパンを使い炊き出しを行い、皆で食べ合うその結束力に心打たれながらカメラをまわし続けるだけしかできない自分でした。
宮戸島で死者が出なかったのはこのコミュニティーの結束力があったからこそでしょう。

岡村氏が宮戸で拠点として借りていた家が隣の大浜地区にあったのでそちらへ移動する。
大浜地区もほぼ全滅状態で浜近くにあった岡村氏の家は300メートルほど内陸へ押し流され無惨ながれきの山と化していました。歩いて移動するしかないのですが近づくにも破壊された家々の残骸には釘などがむき出しになっており足下に注意しながら進まなければなりません。
岡村氏が資料など何点か拾い上げた後に縄文歴史博物館のある里浜地区へ向かいました。
里浜地区は太平洋に対し裏側にあたる集落のせいかほとんど外見的には被害を感じることはありませんでした。ただ近づいてみると津波によってなのでしょう田に軽自動車が転がっていたり、実際に間近で見ると被害が多数出ていて、博物館の展示品などは無惨に床に転がり破壊されていました。
激しい地盤沈下にも見舞われ、排水口のマンホールが地面から数十センチ(おそらく7、80センチだろうか)浮き上がっており(実際は周りが沈んだため)その想像を越えた破壊力に圧倒されるばかりでした。

そして我々はガソリンや自分たちの水や食料にも限りがあるため一旦宮戸を離れたのです。

この時の最大の反省点は前年の「えんずのわり」撮影分のこともあり頭のどこかで勝手に「月浜集落の復興を追う」という固定観念にとらわれてしまい他の集落をきちんと撮影しなかったことです。
大浜地区は若干撮影はしたのですが、視点が違っていましたし、室浜地区に至っては一切撮影せずに帰路についてしまいました。
この時にこうした思い込みや常識にとらわれずに目の前にあるものを記録する姿勢ということの大切さを学びました。

「宮戸復興の記録 2011〜2013」は宮戸・野蒜地域の文化遺産の再生・活用検討実行委員会の映像記録として制作されました。よって現在のところ一般向けの公開は予定されていません。
今回の受賞を期に少しでも多くの方々にみていただければよいのですが・・・



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再会 父のいた時間 [映画と人生]

私の舌癌入院中に起きた父の孤独死から4ヶ月。退院後施設から寝たきりの母を引き取り2人で暮らし始めて1ヶ月半。食事の支度、排泄の世話、着替え、掃除、洗濯、買い物・・・ようやく日々の介護生活にも慣れてきました。
そんなある日、父の衣服を整理しておこうと思い立ち愛用していたジャンバーのポケットに何気なく手を入れると一枚のレシートが出てきました・・・

よく見ると日付は「2014/1/8」・・・

それは父が亡くなった当日の日付。

2014-1-8.jpg

この日はお昼過ぎから雨が降り出す寒い日でした。私も病室の窓から見た暗い雲の光景を今でも覚えています。あのどこか不安な光景・・・

刻印された時間は午前11:16分。

まだ雨は降りだしていない寒さの中、少々ふらつく危ない感じで自転車を漕ぐ父の姿が眼に浮かびます。それはおそらく死を迎える1〜2時間前だったのではないでしょうか。
この日父はいつものように朝ゴミ出しをして(ご近所の方が目撃していたことを後で聞かされました)、母をデイサービスに送り出し、買い物をし、一人で昼食(おそらくレシートにある第一パン一口包み)を食べ、一休みした後に風呂に入ったのでしょう。そして浴槽の中で静かに心臓が鼓動を打つのをやめてしまった・・・
今まで想像でしかなかった父の行動がこのレシートからハッキリと見えてきたのです。

後に母から聞いた話では食卓の上にはお弁当が並べられていたとのこと、それが母の好きだった生姜あさりご飯と自分は和風弁当だったことがレシートから分かります。
父は母がデイサービスから戻った後に二人でこれを食べるつもりだったのです。

父はまさに死の瞬間まで家族を思い確かに生きていたのです。

このたった1枚のレシートで父に再会することができました。
葬式にも四十九日にも出られなかった私が・・・

本当に本当にありがとう、あなたは凄い人です!


タグ:家族 介護 人生
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