涼宮ハルヒの消失 を観て [映画と人生]
「涼宮ハルヒの消失」(2010年公開)という劇場用アニメーション作品を見る機会がありました。
実に切ないお話で久々感慨深い作品となりました。
その感動をお伝えしたく拙い文章ではありますがここに記しておきたいと思います。
ここでひとつ申し添えておきたいのが、私は谷川流氏の原作にはまったく触れていない事、つまりテレビシリーズとこの劇場版のみからの感想となるということです。
劇場版「涼宮ハルヒの消失」の物語は長門有希に生まれてしまったある「感情」が発端となっています。
そしてそこにはテレビシリーズで描かれたSOS団の面々との日々が多大に影響しています。
ですからこのテレビシリーズ28話を見ておくことが「消失」をより深く理解する為には必要だなと感じました。
劇場版ではこのテレビシリーズでのSOS団との日々の中で”バグ”が蓄積、やがて有希を異常動作させ世界の”改変”行為へと導きます。
ではその”バグ”とは・・・
長門有希とは、”情報統合思念体”なる存在から涼宮ハルヒの観察と報告を主目的に作られた”対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース”。つまりロボットやアンドロイドのような存在です。
ハルヒが”陽”であるとすれば有希は”陰”。
陰(影)の様であり、その特異能力によって団員達にふりかかる様々な問題を解決していく存在ではあるが普段は文芸部に残った最後の部員として部室で独り本を読む毎日を送っている。読書本もユニークで筒井康隆「虚構船団」、村上春樹「「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」、早川書房「世界SF全集」、ダン・シモンズ「ハイペリオン」四部作などがあり実際に本作にも描き込まれている。
会話も”原稿用紙一行以上の言葉は発しない”というほど無口でおとなしい無表情な眼鏡少女。それが長門有希だったのです。
そんな有希がSOS団の”仲間”達と共に不思議探しツアーや、七夕を祝ったり、合宿へ行ったり、夏休みを過ごしたり、自主映画を作ったり、文化祭で演奏したり・・・
普通の高校生のような生活。今まで無縁だった生活。
特にキョンはハルヒに対しての理解者およびイレギュラー因子として有希には認識されていたが、そうした日々の中でキョンから投げかけられる言葉や有希自らが発信するやりとりから芽生えた特別な「感情」。
キョンと有希の交流は、
・キョンが有希に作ってあげた図書カード(涼宮ハルヒの憂鬱Ⅲ)、
・朝倉涼子の暴走からキョンを守るための壮絶な闘いの後に自分の眼鏡を再構成し忘れた有希にキョンが言う、「(眼鏡を)してないほうが可愛いと思うぞ」(涼宮ハルヒの憂鬱Ⅳ)。有希は翌日から眼鏡をかけなくなる。
・”閉鎖空間”へ迷い込んだハルヒとキョン。そんなキョンに有希はパソコンを通じて救いのメッセージを送る。
「YUKI.N>わたしという個体もあなたには戻ってきて欲しいと感じている_」
YUKI.N>また図書館に_」(第6話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」)
・ハルヒのせいで高1の夏休みを延々15532回 595年分も繰り返すはめになった時有希独りだけはその15532回 595年分の記憶を持ち皆に寄り添うことになるが、キョンはそんな長門を見て「長門、やはりお前にもあるのだろうか”独りでいることが寂しい”と思う事が」と・・・(第9話「ミステリックサイン」)
これらの事が積み重なり有希にとってのキョンは次第に”大切な人”へと変わっていきます。
有希の中に育ち始めるキョンへの思い、それは”対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース”としての有希の中の小さな”バグ”として蓄積して行きやがて飽和状態となってしまいます。そしてとうとうある日世界そのものを改変させてしまいます。
その世界とは、「有希がキョンとともに生きる世界」。「有希が望んだ世界」。
身も蓋もない言い方になるかもしれませんが、この「消失」の物語は「ハルヒという友人の彼氏を好きになってしまった少女」のお話として捉えると全体をすっきりと見渡せるような気がします。特異な存在であるが故の孤独の中、叶わないと知りながら「思い」を積み重ねてゆく有希が犯してしまった暴走、世界改変・・・
改変後の世界にハルヒの姿はなく、有希は極端に恥ずかしがり屋の少女として表情も会話もつくれるようになっているのです。
そしてぎこちなくではありますが、キョンへの思いを表現するのです。
有希の部屋からの帰り際に見せた有希のぎこちない笑顔。キョンは驚愕と言ってもいい表情をします。
世界改変の認識をあらたにすると共に、エピローグへの伏線となっているのではないでしょうか。
しかし有希の中に残る罪悪感からか、自身が仕掛けたプログラムにより最終選択をキョンに委ねてしまいます。
ハルヒとの世界か、有希との世界か・・・
そしてキョンはハルヒのいる世界への帰還を選択してしまいます。つまり有希の思いは達成できなかったのです。
こうして長門有希という少女の思いを描いた夢は消えてしまいます。
終盤、病院屋上でキョンと有希二人へ降る雪。手元で消えてしまう雪がその儚さを表しています。
そして・・・願いは叶わなかったけれどキョンの優しさと友情をあらためて再確認した有希が言います、「ありがとう」と・・・
元の世界に戻ってしまったことで有希の思いは遂げることができませんでしたが、有希の中にはまたあらたな”希望”が生まれたのではないでしょうか。
エピローグは図書館。独り有希が本を読んでいる側で小さな少年が同じく少女に図書カードを作ってあげている光景です。
有希はその二人を見つめながらそっと本で口元を隠します。きっと笑顔になってしまったのではないでしょうか。
それはキョンや仲間からの贈り物。元の世界でそれまで決して表情を変えなかった有希にそっと芽生えた「感情」なのではないでしょうか。
その口元を隠している本がジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「たったひとつの冴えたやりかた」。
この本の物語が「異星人との友情」をテーマにしていることは有希の心境を語るものになっていたのではないでしょうか。
「涼宮ハルヒの消失」はとても心に残る作品となりました。
実に切ないお話で久々感慨深い作品となりました。
その感動をお伝えしたく拙い文章ではありますがここに記しておきたいと思います。
ここでひとつ申し添えておきたいのが、私は谷川流氏の原作にはまったく触れていない事、つまりテレビシリーズとこの劇場版のみからの感想となるということです。
劇場版「涼宮ハルヒの消失」の物語は長門有希に生まれてしまったある「感情」が発端となっています。
そしてそこにはテレビシリーズで描かれたSOS団の面々との日々が多大に影響しています。
ですからこのテレビシリーズ28話を見ておくことが「消失」をより深く理解する為には必要だなと感じました。
劇場版ではこのテレビシリーズでのSOS団との日々の中で”バグ”が蓄積、やがて有希を異常動作させ世界の”改変”行為へと導きます。
ではその”バグ”とは・・・
長門有希とは、”情報統合思念体”なる存在から涼宮ハルヒの観察と報告を主目的に作られた”対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース”。つまりロボットやアンドロイドのような存在です。
ハルヒが”陽”であるとすれば有希は”陰”。
陰(影)の様であり、その特異能力によって団員達にふりかかる様々な問題を解決していく存在ではあるが普段は文芸部に残った最後の部員として部室で独り本を読む毎日を送っている。読書本もユニークで筒井康隆「虚構船団」、村上春樹「「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」、早川書房「世界SF全集」、ダン・シモンズ「ハイペリオン」四部作などがあり実際に本作にも描き込まれている。
会話も”原稿用紙一行以上の言葉は発しない”というほど無口でおとなしい無表情な眼鏡少女。それが長門有希だったのです。
そんな有希がSOS団の”仲間”達と共に不思議探しツアーや、七夕を祝ったり、合宿へ行ったり、夏休みを過ごしたり、自主映画を作ったり、文化祭で演奏したり・・・
普通の高校生のような生活。今まで無縁だった生活。
特にキョンはハルヒに対しての理解者およびイレギュラー因子として有希には認識されていたが、そうした日々の中でキョンから投げかけられる言葉や有希自らが発信するやりとりから芽生えた特別な「感情」。
キョンと有希の交流は、
・キョンが有希に作ってあげた図書カード(涼宮ハルヒの憂鬱Ⅲ)、
・朝倉涼子の暴走からキョンを守るための壮絶な闘いの後に自分の眼鏡を再構成し忘れた有希にキョンが言う、「(眼鏡を)してないほうが可愛いと思うぞ」(涼宮ハルヒの憂鬱Ⅳ)。有希は翌日から眼鏡をかけなくなる。
・”閉鎖空間”へ迷い込んだハルヒとキョン。そんなキョンに有希はパソコンを通じて救いのメッセージを送る。
「YUKI.N>わたしという個体もあなたには戻ってきて欲しいと感じている_」
YUKI.N>また図書館に_」(第6話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」)
・ハルヒのせいで高1の夏休みを延々15532回 595年分も繰り返すはめになった時有希独りだけはその15532回 595年分の記憶を持ち皆に寄り添うことになるが、キョンはそんな長門を見て「長門、やはりお前にもあるのだろうか”独りでいることが寂しい”と思う事が」と・・・(第9話「ミステリックサイン」)
これらの事が積み重なり有希にとってのキョンは次第に”大切な人”へと変わっていきます。
有希の中に育ち始めるキョンへの思い、それは”対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース”としての有希の中の小さな”バグ”として蓄積して行きやがて飽和状態となってしまいます。そしてとうとうある日世界そのものを改変させてしまいます。
その世界とは、「有希がキョンとともに生きる世界」。「有希が望んだ世界」。
身も蓋もない言い方になるかもしれませんが、この「消失」の物語は「ハルヒという友人の彼氏を好きになってしまった少女」のお話として捉えると全体をすっきりと見渡せるような気がします。特異な存在であるが故の孤独の中、叶わないと知りながら「思い」を積み重ねてゆく有希が犯してしまった暴走、世界改変・・・
改変後の世界にハルヒの姿はなく、有希は極端に恥ずかしがり屋の少女として表情も会話もつくれるようになっているのです。
そしてぎこちなくではありますが、キョンへの思いを表現するのです。
有希の部屋からの帰り際に見せた有希のぎこちない笑顔。キョンは驚愕と言ってもいい表情をします。
世界改変の認識をあらたにすると共に、エピローグへの伏線となっているのではないでしょうか。
しかし有希の中に残る罪悪感からか、自身が仕掛けたプログラムにより最終選択をキョンに委ねてしまいます。
ハルヒとの世界か、有希との世界か・・・
そしてキョンはハルヒのいる世界への帰還を選択してしまいます。つまり有希の思いは達成できなかったのです。
こうして長門有希という少女の思いを描いた夢は消えてしまいます。
終盤、病院屋上でキョンと有希二人へ降る雪。手元で消えてしまう雪がその儚さを表しています。
そして・・・願いは叶わなかったけれどキョンの優しさと友情をあらためて再確認した有希が言います、「ありがとう」と・・・
元の世界に戻ってしまったことで有希の思いは遂げることができませんでしたが、有希の中にはまたあらたな”希望”が生まれたのではないでしょうか。
エピローグは図書館。独り有希が本を読んでいる側で小さな少年が同じく少女に図書カードを作ってあげている光景です。
有希はその二人を見つめながらそっと本で口元を隠します。きっと笑顔になってしまったのではないでしょうか。
それはキョンや仲間からの贈り物。元の世界でそれまで決して表情を変えなかった有希にそっと芽生えた「感情」なのではないでしょうか。
その口元を隠している本がジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「たったひとつの冴えたやりかた」。
この本の物語が「異星人との友情」をテーマにしていることは有希の心境を語るものになっていたのではないでしょうか。
「涼宮ハルヒの消失」はとても心に残る作品となりました。
特撮博物館 見聞記 [映画と人生]
少し前になるが友人達と「館長庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」を見に行ってきました。
日本のお家芸ともいえる特撮(特にミニチュア特撮)をテーマにした展示です。
過去にこれほどの資料を展示したものは皆無だったと思います。
円谷特撮や東宝特撮はもちろん様々な特撮テレビのミニチュアの実物が展示されています。今回写真はありませんが特にマイティ号とメカゴジラ2は圧巻でした。
そしてこの催しに合わせて創られた特撮短編映画「巨神兵、東京に現わる」は必見です。
特撮博物館でもこれら子供時代に観た特撮作品の数々が多数展示されていて、実に懐かしくそして胸熱くなる数時間でした。
「モスラ」の東京タワー/「日本沈没」のわだつみ/「マグマ大使」のロケット/「マイティージャック」のマイティー号/「ウルトラマン」のジェットビートル/等々・・・
少年マガジンの巻頭特集などで解説されていた特撮映画の舞台裏などの記事をわくわくしながら読んでいたあの頃。憧れなどという生易しいものではなく思慕、称嘆していた特撮の現場。
「特撮」という言葉が懐かしく感じられるほど今はほとんどがCGやポスプロ作業での効果に置き換えられてきています。最近富士フィルムが映画用フィルムの生産中止を発表したように、これら映画の遺産は失われていく運命なのでしょうか。
CGに比べてリアルでないことは認めますが、特撮には人が作り出した温もりがあります。
これはCGでは出せない味なのではないでしょうか。
正直に言うと、社会に出た当初は特撮に関わる仕事が望みだったのですがそれはかないませんでした。
しかし映像キャメランとなったことで、有川貞昌氏(特殊撮影・特技監督) 中野稔氏(合成) 大岡新一氏(撮影・現円谷プロ代表取締役社長) 玉井正夫氏(「ゴジラ」本編撮影)稲垣涌三氏(怪奇大作戦実相寺作品の撮影)にお会いする事ができました。特に中野稔氏からは興味深いお話を数多く聞く事ができました。これらは今でも私の財産となっています。
日本のお家芸ともいえる特撮(特にミニチュア特撮)をテーマにした展示です。
過去にこれほどの資料を展示したものは皆無だったと思います。
円谷特撮や東宝特撮はもちろん様々な特撮テレビのミニチュアの実物が展示されています。今回写真はありませんが特にマイティ号とメカゴジラ2は圧巻でした。
そしてこの催しに合わせて創られた特撮短編映画「巨神兵、東京に現わる」は必見です。
特撮博物館でもこれら子供時代に観た特撮作品の数々が多数展示されていて、実に懐かしくそして胸熱くなる数時間でした。
「モスラ」の東京タワー/「日本沈没」のわだつみ/「マグマ大使」のロケット/「マイティージャック」のマイティー号/「ウルトラマン」のジェットビートル/等々・・・
少年マガジンの巻頭特集などで解説されていた特撮映画の舞台裏などの記事をわくわくしながら読んでいたあの頃。憧れなどという生易しいものではなく思慕、称嘆していた特撮の現場。
「特撮」という言葉が懐かしく感じられるほど今はほとんどがCGやポスプロ作業での効果に置き換えられてきています。最近富士フィルムが映画用フィルムの生産中止を発表したように、これら映画の遺産は失われていく運命なのでしょうか。
CGに比べてリアルでないことは認めますが、特撮には人が作り出した温もりがあります。
これはCGでは出せない味なのではないでしょうか。
正直に言うと、社会に出た当初は特撮に関わる仕事が望みだったのですがそれはかないませんでした。
しかし映像キャメランとなったことで、有川貞昌氏(特殊撮影・特技監督) 中野稔氏(合成) 大岡新一氏(撮影・現円谷プロ代表取締役社長) 玉井正夫氏(「ゴジラ」本編撮影)稲垣涌三氏(怪奇大作戦実相寺作品の撮影)にお会いする事ができました。特に中野稔氏からは興味深いお話を数多く聞く事ができました。これらは今でも私の財産となっています。
美しい言葉ー日本語 [美しい言葉ー日本語]
キャメラの旅1 ARRIFLEX 35 Ⅲ [キャメラの旅]
今やデジタルキャメラ全盛の時代となり、私が助手時代、キャメラマン時代に使用してきたムービーキャメラは急速に影を潜めつつあります。
ここでは「キャメラの旅」と題して、暦年使用してきたキャメラの数々を振返っていこうと思います。
「ARRIFLEX 35 Ⅲ」
私が使用したなかでもっとも使用頻度がた高かったのがこの「ARRIFLEX 35 Ⅲ」。
主にコマーシャルでの使用が多かったです。
写真ではPanavision社の×10ズームが装着されています。
ボディ下部にはHSクリスタルコントロール。
ニューヨークのレンタル屋さんでレンタルした時のものです。
フィルムの装填は比較的簡単でループ(フィルムの駆動をなめらかに行う為の”遊び”)の取り方さえ間違えなければ間違いなく動作してくれる安定感のあるキャメラでした。しかも片側のみですがレジストレーションピン(フィルムを露光中確実にアパチュアに静止させる為にパーフォレーションを押さえるピン)もついていて「画止まり」のよいキャメラでした。この「画止まり」の良さはコマーシャルでスーパー文字を合成する際にとても重要な点になります。「画止まり」が悪いと合成のスーパーは止まっていても画が揺れてしまうからです。レンズマウントも「BNCR」「PL」「ARRI」「Pana」とほとんどのムービー用レンズを装着することができました。
キャメラスピード(FPS)もオプションのHSクリスタルコントロールにて120コマ(24コマ計算で5倍)まで回すことができました。
ARRIFLEX社のキャメラは35ミリ、16ミリ共に小型で携行性にすぐれたものが多く世界中のスタンダード機だったと言えます。
本体重量:6.7キロ(本体のみ)(400feetマガジン装着時)
この後は「ミッチェル」「パナフレックス」「エクレール」等のキャメラを順次紹介していきたいと思います
キャメラ:いつの頃からかは分からないのですが古くから映画の関係者はカメラの事を「キャメラ」
と呼びます。一説によるとスチールカメラとの差別化が目的とも言われています。
私はこの「キャメラ」という言葉の響きに映画人の誇りと自負を感じます。
だから「カメラマン」ではなく「キャメラマン」なのです。
ここで紹介するFilmキャメラには「カメラ」ではなく、あまり一般的とは言えない
「キャメラ」をあえて使いたいと思います。
ホームページ:http://pangaea.movie.coocan.jp/index.html
ここでは「キャメラの旅」と題して、暦年使用してきたキャメラの数々を振返っていこうと思います。
「ARRIFLEX 35 Ⅲ」
私が使用したなかでもっとも使用頻度がた高かったのがこの「ARRIFLEX 35 Ⅲ」。
主にコマーシャルでの使用が多かったです。
写真ではPanavision社の×10ズームが装着されています。
ボディ下部にはHSクリスタルコントロール。
ニューヨークのレンタル屋さんでレンタルした時のものです。
フィルムの装填は比較的簡単でループ(フィルムの駆動をなめらかに行う為の”遊び”)の取り方さえ間違えなければ間違いなく動作してくれる安定感のあるキャメラでした。しかも片側のみですがレジストレーションピン(フィルムを露光中確実にアパチュアに静止させる為にパーフォレーションを押さえるピン)もついていて「画止まり」のよいキャメラでした。この「画止まり」の良さはコマーシャルでスーパー文字を合成する際にとても重要な点になります。「画止まり」が悪いと合成のスーパーは止まっていても画が揺れてしまうからです。レンズマウントも「BNCR」「PL」「ARRI」「Pana」とほとんどのムービー用レンズを装着することができました。
キャメラスピード(FPS)もオプションのHSクリスタルコントロールにて120コマ(24コマ計算で5倍)まで回すことができました。
ARRIFLEX社のキャメラは35ミリ、16ミリ共に小型で携行性にすぐれたものが多く世界中のスタンダード機だったと言えます。
本体重量:6.7キロ(本体のみ)(400feetマガジン装着時)
この後は「ミッチェル」「パナフレックス」「エクレール」等のキャメラを順次紹介していきたいと思います
キャメラ:いつの頃からかは分からないのですが古くから映画の関係者はカメラの事を「キャメラ」
と呼びます。一説によるとスチールカメラとの差別化が目的とも言われています。
私はこの「キャメラ」という言葉の響きに映画人の誇りと自負を感じます。
だから「カメラマン」ではなく「キャメラマン」なのです。
ここで紹介するFilmキャメラには「カメラ」ではなく、あまり一般的とは言えない
「キャメラ」をあえて使いたいと思います。
ホームページ:http://pangaea.movie.coocan.jp/index.html
原田芳雄さん(映画「出張」)の思い出 [映画と人生]
原田さんの突然の訃報にただただ驚いております。
また一人アクの強い俳優さんがいなくなってしまいました。
私が原田さんと御一緒させていただいた作品は、
「出張」 1989年 沖島勳 監督作品 ・ 撮影 大津幸四郎
「眠れる美女」 1995年 横山博人 監督作品 ・ 撮影 羽方義昌
の2本です。
私は両作ともに撮影者ではなく撮影助手のチーフという立場での関わりました。
両作品とも思い出深いのですが、特に「出張」はピンク映画に毛が生えたぐらいの予算(失礼!)だったこともあり、その低予算であるがための忘れられないエピソードがあります。
前列に原田芳雄さん、石橋蓮司さん。前列左から二人目白い帽子が監督沖島勳氏、前列カメラを抱えているのが大津幸四郎氏、画面一番右が「釘と靴下の対話」の平野克己氏
中央付銃を構えている人物後ろで手を組んでいるのが私
※写真に掲載されている方で何か問題のある方はこちらhttp://pangaea.movie.coocan.jp/index.htmlを通して御連絡ください。すぐに対処いたします。
「出張」の粗筋ははこちらで、
http://movie.goo.ne.jp/movies/p18131/story.html
この「出張」は東京都内と山形の2ヶ所で主に撮影された作品です。
山形のある温泉近くの空き地にゲリラ組織の基地を作り、そこで一週間ほどロケを行ったときのことです。
ある日電車事故で身動きがとれなくなったサラリーマンが途中下車した先で、今も国家権力壊滅の為に闘うゲリラの人質になってしまうというストーリーです。
原田さんはこの何だかよく分からない(笑)ゲリラ組織の隊長役です。
現場的には限られた時間内で昼のシーンもナイトシーンも撮りきらなければならない強行スケジュールでした。
この時スタッフは近くの木造の古い崩れそうな湯治場に宿泊していたのですがそんなハードスケジュールですからまともに寝る時間などははほとんどありませんでした。
余談ですが、私などはあまりの寝不足のせいで宿に帰る車から前方の木々に人の首がぶらさがって笑っている幻覚を見たほどです(笑)
それから宿が自家発電のため夜はたしか9時ぐらいで電気の供給が止まってしまいナイトロケを終えて宿に帰っても電気シェーバーを持参していた私は髭を剃ることができず、仕方ないのでそのままのばし続けたら結構周りの評判がよくそのままのばし続けて20年過ぎてしまいました。(※現在は2006年の病気をきっかけにひげは生やしていない)
一方キャストの方々は原田さん含め少し離れた温泉街の旅館に宿泊されていたと記憶しています。
原田さんはこの時日産のサファリでマネージャーの方と現場まで毎日通っておられました。
そして待ち時間等の会話の中でそのサファリが買ったばかりの新車だということが分かりました。当時は車の選択まで原田さんらしさを感じたものです。
それまで教育映画や記録映画の仕事が多かった私にとっては役者「原田芳雄」と言えばそれまでスクリーンで観られる言わば雲の上の人でしたし、今作の主演石橋蓮司さんや松尾嘉代さん、亜湖さんなどの役者さん達と仕事していることだけでも私は幸せだったのです。
原田さんはスタッフ、キャスト誰とでも気さくに話される方でした。待ち時間の時など若い制作進行さんなどをかわいがっておられたのが印象に残っています。
これは今作が小規模で家族的な体制だったせいもあるのかもしれません。
ある時など原田さんが待ち時間を利用して制作の若者と一緒に全員の夜食としてカレーまで作ってくれたこともありました。
そうやって寝不足で皆フラフラになりながらも何とか撮影は進行していったのですが、ある日大事件が起きます。
その日も昼の撮影が終わり、いつものゲリラ基地のナイトシーンの撮影をしていました。撮影自体は特に問題もなく進行していたその時・・・「ドーン」という轟音とともに巨大な火柱が上がったのです。
見れば火柱の上がったのはいつも制作進行さんが夜食作ったりしている少し離れた林の向こう側です。火柱はおおよそ5、6メートルは上がったのではないかという勢いで、かなり背の高い木の枝が燃えそうな勢いです。いや実際に燃え始めています。
スタッフ、キャスト一同が騒然となりました。
「早く消せー!」と怒号が飛び交います。その直後ですカメラの前で今の今まで芝居をしていた原田さんが勢い良く起ち上がったか思うと「○○(マネージャーの名)早く車を動かせ!」と怒鳴りながら一目散に愛車に向かって走って行くのです。
原田さんの新車サファリはこの火柱の側に駐車してあったのです。
大変失礼な言い方かもしれませんが、この時私は原田さんも我々と同じ人間なんだなぁーと感じたのです。決して雲の上の存在などではなく同じ生活者としての「原田芳雄」を見たと。
さて火柱の原因ですが、制作進行さんが焚き火にお湯を沸かそうとかけたやかんが原因でした。連日の強行撮影で朦朧としていた彼は、水の入ったやかんではなく照明用発電機の為に用意されていたガソリン入りやかんを火にをかけてしまったのです。
そりゃー爆発もします(笑)
彼はガソリン入りのやかんがあることはわかっていたようですが、連日の疲れが出たのでしょう・・・
さて原田さんの車ですが、原田さんとマネージャー氏の素早い対応で無事火柱から避難することができ事なきを得ました。
失礼かもしれませんがこの時の原田さんの慌てぶりが親しみやすい「人間・原田芳雄」を垣間見せてくれた瞬間だったと懐かしく思い出されます。
今回の突然の訃報に驚き、その存在感の大きさをあらためて知らされました。
役者「原田芳雄」は間違いなく日本映画さ支えた名優だったと思います。
一ファンとしてその素晴らしい演技の数々をこれからもスクリーンの中で拝見し続けたいと思います。
御冥福をお祈りいたします。
また一人アクの強い俳優さんがいなくなってしまいました。
私が原田さんと御一緒させていただいた作品は、
「出張」 1989年 沖島勳 監督作品 ・ 撮影 大津幸四郎
「眠れる美女」 1995年 横山博人 監督作品 ・ 撮影 羽方義昌
の2本です。
私は両作ともに撮影者ではなく撮影助手のチーフという立場での関わりました。
両作品とも思い出深いのですが、特に「出張」はピンク映画に毛が生えたぐらいの予算(失礼!)だったこともあり、その低予算であるがための忘れられないエピソードがあります。
前列に原田芳雄さん、石橋蓮司さん。前列左から二人目白い帽子が監督沖島勳氏、前列カメラを抱えているのが大津幸四郎氏、画面一番右が「釘と靴下の対話」の平野克己氏
中央付銃を構えている人物後ろで手を組んでいるのが私
※写真に掲載されている方で何か問題のある方はこちらhttp://pangaea.movie.coocan.jp/index.htmlを通して御連絡ください。すぐに対処いたします。
「出張」の粗筋ははこちらで、
http://movie.goo.ne.jp/movies/p18131/story.html
この「出張」は東京都内と山形の2ヶ所で主に撮影された作品です。
山形のある温泉近くの空き地にゲリラ組織の基地を作り、そこで一週間ほどロケを行ったときのことです。
ある日電車事故で身動きがとれなくなったサラリーマンが途中下車した先で、今も国家権力壊滅の為に闘うゲリラの人質になってしまうというストーリーです。
原田さんはこの何だかよく分からない(笑)ゲリラ組織の隊長役です。
現場的には限られた時間内で昼のシーンもナイトシーンも撮りきらなければならない強行スケジュールでした。
この時スタッフは近くの木造の古い崩れそうな湯治場に宿泊していたのですがそんなハードスケジュールですからまともに寝る時間などははほとんどありませんでした。
余談ですが、私などはあまりの寝不足のせいで宿に帰る車から前方の木々に人の首がぶらさがって笑っている幻覚を見たほどです(笑)
それから宿が自家発電のため夜はたしか9時ぐらいで電気の供給が止まってしまいナイトロケを終えて宿に帰っても電気シェーバーを持参していた私は髭を剃ることができず、仕方ないのでそのままのばし続けたら結構周りの評判がよくそのままのばし続けて20年過ぎてしまいました。(※現在は2006年の病気をきっかけにひげは生やしていない)
一方キャストの方々は原田さん含め少し離れた温泉街の旅館に宿泊されていたと記憶しています。
原田さんはこの時日産のサファリでマネージャーの方と現場まで毎日通っておられました。
そして待ち時間等の会話の中でそのサファリが買ったばかりの新車だということが分かりました。当時は車の選択まで原田さんらしさを感じたものです。
それまで教育映画や記録映画の仕事が多かった私にとっては役者「原田芳雄」と言えばそれまでスクリーンで観られる言わば雲の上の人でしたし、今作の主演石橋蓮司さんや松尾嘉代さん、亜湖さんなどの役者さん達と仕事していることだけでも私は幸せだったのです。
原田さんはスタッフ、キャスト誰とでも気さくに話される方でした。待ち時間の時など若い制作進行さんなどをかわいがっておられたのが印象に残っています。
これは今作が小規模で家族的な体制だったせいもあるのかもしれません。
ある時など原田さんが待ち時間を利用して制作の若者と一緒に全員の夜食としてカレーまで作ってくれたこともありました。
そうやって寝不足で皆フラフラになりながらも何とか撮影は進行していったのですが、ある日大事件が起きます。
その日も昼の撮影が終わり、いつものゲリラ基地のナイトシーンの撮影をしていました。撮影自体は特に問題もなく進行していたその時・・・「ドーン」という轟音とともに巨大な火柱が上がったのです。
見れば火柱の上がったのはいつも制作進行さんが夜食作ったりしている少し離れた林の向こう側です。火柱はおおよそ5、6メートルは上がったのではないかという勢いで、かなり背の高い木の枝が燃えそうな勢いです。いや実際に燃え始めています。
スタッフ、キャスト一同が騒然となりました。
「早く消せー!」と怒号が飛び交います。その直後ですカメラの前で今の今まで芝居をしていた原田さんが勢い良く起ち上がったか思うと「○○(マネージャーの名)早く車を動かせ!」と怒鳴りながら一目散に愛車に向かって走って行くのです。
原田さんの新車サファリはこの火柱の側に駐車してあったのです。
大変失礼な言い方かもしれませんが、この時私は原田さんも我々と同じ人間なんだなぁーと感じたのです。決して雲の上の存在などではなく同じ生活者としての「原田芳雄」を見たと。
さて火柱の原因ですが、制作進行さんが焚き火にお湯を沸かそうとかけたやかんが原因でした。連日の強行撮影で朦朧としていた彼は、水の入ったやかんではなく照明用発電機の為に用意されていたガソリン入りやかんを火にをかけてしまったのです。
そりゃー爆発もします(笑)
彼はガソリン入りのやかんがあることはわかっていたようですが、連日の疲れが出たのでしょう・・・
さて原田さんの車ですが、原田さんとマネージャー氏の素早い対応で無事火柱から避難することができ事なきを得ました。
失礼かもしれませんがこの時の原田さんの慌てぶりが親しみやすい「人間・原田芳雄」を垣間見せてくれた瞬間だったと懐かしく思い出されます。
今回の突然の訃報に驚き、その存在感の大きさをあらためて知らされました。
役者「原田芳雄」は間違いなく日本映画さ支えた名優だったと思います。
一ファンとしてその素晴らしい演技の数々をこれからもスクリーンの中で拝見し続けたいと思います。
御冥福をお祈りいたします。
Austriaオーストリアへの旅 [映画と人生]
久々にこのブログ本来のテーマに戻ってきました(笑)
今から20年近く前だったでしょうか・・・
車のコマーシャル撮影でドイツのミュンヘン→オーストリアのグロスグロックナー→ウィーンへと巡ったことがあります。
ミュンヘンでの撮影を終え、現地で雇ったセカンドアシスタントと二人機材車で移動します。
お互いに英語は辿々しいのですが楽しいドライブです。
やがて国境を越えると道はきびしいカーブの連続になります。
予断ですがこの時走行中にブレーキを使いすぎて「フェード現象」が起きてしまった時は「もう駄目だ!」と思いました
運転していたドイツのアシスタントさんがブレーキを何度も踏みながら叫んでいます。
しかし車はスピードが落ちるどころかグングン加速していきます。
幸い、下りの先に広い駐車スペースがありそこの土壁に車を横当てして何とか停まったのですが(笑)
この旅で一番印象深かったのがここグロスグロックナー(Großglockner)。
オーストリア国内最高峰の山です。
まるでハイジの世界がそこにありました(笑)
泊まったホテルは瀟洒な山小屋風で(さすがにベットはワラではありません(*>▽<*))、すぐ脇には氷河がよこたわっているという環境です。
このホテルでもサプライズがありました。
当時のドイツ首相のコール氏が同じホテルに泊まっていたのです。
お忍びということらしく、ものものしい警備等一切ありません。
ロビーに居る時周りがざわついたので何事かと見ると、皆ある人物に道を空けて最敬礼しています。
後で「あれはドイツのコール首相だ」と聞いてビックリです。
この時は山道を走行する商品車を撮影に来たのですが、なかなか撮影に向く天候になってくれません。
車の撮影では常識ですが、晴れではなく曇りをねらいます。
ボディに強い太陽の反射を受けてしまうと本来のボディの持つ美しさを損ねてしまうからです。
ウェスカムという空撮用防振装置とオペレーター2名をアメリカから呼んでいたのでプロデューサーも気が気ではなかったでしょう。
2、3日の予定が一週間近く延びたと記憶しています。
そしてどうにか撮影をむかえました。
走行するワインディングは2、3キロですが、前後に車を入れたくないという意図から5、6キロの前後で全ての車をストップさせての撮影です。
後で聞いたのですが、車を止められた人達は撮影だと聞くと皆快く待っていてくれたそうです。
それからこの時のオーストリアでのコーディネイトをしてくれた人物が過去に「サウンド・オブ・ミュージック」にも関わっていたことを聞いた時は何故か嬉しくなりました。
作者H.P. : http://pangaea.movie.coocan.jp/index.html
今から20年近く前だったでしょうか・・・
車のコマーシャル撮影でドイツのミュンヘン→オーストリアのグロスグロックナー→ウィーンへと巡ったことがあります。
ミュンヘンでの撮影を終え、現地で雇ったセカンドアシスタントと二人機材車で移動します。
お互いに英語は辿々しいのですが楽しいドライブです。
やがて国境を越えると道はきびしいカーブの連続になります。
予断ですがこの時走行中にブレーキを使いすぎて「フェード現象」が起きてしまった時は「もう駄目だ!」と思いました
運転していたドイツのアシスタントさんがブレーキを何度も踏みながら叫んでいます。
しかし車はスピードが落ちるどころかグングン加速していきます。
幸い、下りの先に広い駐車スペースがありそこの土壁に車を横当てして何とか停まったのですが(笑)
この旅で一番印象深かったのがここグロスグロックナー(Großglockner)。
オーストリア国内最高峰の山です。
まるでハイジの世界がそこにありました(笑)
泊まったホテルは瀟洒な山小屋風で(さすがにベットはワラではありません(*>▽<*))、すぐ脇には氷河がよこたわっているという環境です。
このホテルでもサプライズがありました。
当時のドイツ首相のコール氏が同じホテルに泊まっていたのです。
お忍びということらしく、ものものしい警備等一切ありません。
ロビーに居る時周りがざわついたので何事かと見ると、皆ある人物に道を空けて最敬礼しています。
後で「あれはドイツのコール首相だ」と聞いてビックリです。
この時は山道を走行する商品車を撮影に来たのですが、なかなか撮影に向く天候になってくれません。
車の撮影では常識ですが、晴れではなく曇りをねらいます。
ボディに強い太陽の反射を受けてしまうと本来のボディの持つ美しさを損ねてしまうからです。
ウェスカムという空撮用防振装置とオペレーター2名をアメリカから呼んでいたのでプロデューサーも気が気ではなかったでしょう。
2、3日の予定が一週間近く延びたと記憶しています。
そしてどうにか撮影をむかえました。
走行するワインディングは2、3キロですが、前後に車を入れたくないという意図から5、6キロの前後で全ての車をストップさせての撮影です。
後で聞いたのですが、車を止められた人達は撮影だと聞くと皆快く待っていてくれたそうです。
それからこの時のオーストリアでのコーディネイトをしてくれた人物が過去に「サウンド・オブ・ミュージック」にも関わっていたことを聞いた時は何故か嬉しくなりました。
作者H.P. : http://pangaea.movie.coocan.jp/index.html
命の価値 [映画と人生]
2006年の白血病発症、その後の長い治療、そして今年の脳梗塞。
思えば様々人々の手によって今の命がある。
臍帯血を提供していただいた方、医師や看護士の皆さん、救急隊員の方やヘリのパイロット・・・
何人の人に助けられたのだろうか。
一体私の命にそんな価値があるのだろうか???
思えば様々人々の手によって今の命がある。
臍帯血を提供していただいた方、医師や看護士の皆さん、救急隊員の方やヘリのパイロット・・・
何人の人に助けられたのだろうか。
一体私の命にそんな価値があるのだろうか???
介護ー壊れていく母 [介護]
表題の「旅する映画」からは外れますが・・・
80歳になる母。
アルツハイマーからくる幻聴、被害妄想。
最近では失禁も目立ってきた。
被害妄想的な症状は10数年前から出てはいたのだがここ数年で顕著になってきた。
3年前闘いの末精神科を受診させアルツハイマーの診断。
その直後に骨折→入院→介護施設→自宅(週2回のデイサービス)。
介護施設では精神科から処方されていたアリセプトが使えなく暫く中断。
このところの症状再燃に精神科にて服薬を再開。
82歳の父と同居。
父もこのところ物忘れが目立ってきた。
疲れる・・・
80歳になる母。
アルツハイマーからくる幻聴、被害妄想。
最近では失禁も目立ってきた。
被害妄想的な症状は10数年前から出てはいたのだがここ数年で顕著になってきた。
3年前闘いの末精神科を受診させアルツハイマーの診断。
その直後に骨折→入院→介護施設→自宅(週2回のデイサービス)。
介護施設では精神科から処方されていたアリセプトが使えなく暫く中断。
このところの症状再燃に精神科にて服薬を再開。
82歳の父と同居。
父もこのところ物忘れが目立ってきた。
疲れる・・・