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Adobe Premiere Pro 2020での「A low-level exception occurred in」エラー

Adobe Premiere Pro 2020にアップデートしてから、メニューを操作すると必ず最初だけ「A low-level exception occurred in:(DeviceContoller:4)」というエラーが返されるようになった。それで編集に影響するわけでもなかったのでそのたびに消去していました。でもやはり気にはなるので色々調べるがどれも微妙に違うようでスッキリしませんでした。ですが次の記述を見つけて試したところ見事に解決しました。
https://community.adobe.com/t5/premiere-pro/how-to-fix-quot-a-low-level-exception-occurred-in-devicecontroller-4-quot/td-p/11222164?profile.language=en&page=4

I was having the same issue. But this is what I did and looks like it worked!
Go to > Premiere Pro > Preferences > Device Control > Devices > None
Then press OK

つまりPremiere の環境設定→デバイスコントロール→なし

これだけでエラーは出なくなりました。
ただし次回設定を確認すると元のデバイスが選択されているのが謎ではあるのですが。
しかしエラーは返されません。設定がリセットされたということなのでしょうか?

困っている方は試してみる価値はあるかもしれません。

Adobe Premiere Pro 2020 14.4.0 ビルド38
Mac Pro 2010 搭載メモリ 16GB
Mac OS High Sierra 10.13.6
NVIDIA GeForce GTX 680 2048 MB EFIブート仕様
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シングル介護日記 The Longest Day 001 [介護]

私のように独身者が介護することを「シングル介護」と呼ぶのだということを最近になって知りました。
言葉が生まれた背景には同様の介護形態が増えていることがあるのでしょう。
今介護度3の母を介護しているのですが、実態は4〜5だと考えています。
ベット脇に置いたポータブルトイレには何とか自力で移乗できるのですが、パンツを下ろしきれない(自力で体を支えることが困難なほど足が弱っているため)で失敗することが増えてきています。
車椅子への移乗も危なっかしいですが今は自力で何とか。
食事も車椅子に座りポロポロとこぼしながらも何とか自力で。
できるのはそれだけ。

現在の生活は、
朝6時に起き、30分ほどボーッとしたあと約30分で朝食を作る。
メニューはほぼ決まっていて、ごはんにみそ汁(※具はカブ、ほうれん草、舞茸、しめじ、椎茸、ニラなどを適宜に二種類程選択してローテーションさせている。それ以外に母のお気に入りであるごま昆布としらす、カニかま、卵焼き、ウインナ炒め、納豆などをこちらも適宜組み合わせることで済ませている。
食後、糖尿病の母に7種類の薬を飲ませ(※私も脳梗塞の後遺症で朝は4種類の薬を服用)、食器を片付けたのちに、ベットの整えとシーツ用の防水シートを替える(※この防水シートの存在が分かった時はうれしかった。それまではバスタオルで代用していたのですが一日に多い時には3枚ぐらい交換せねばならず小さな洗濯機の家では大変だったのです)。ポータブルトイレの中身をトイレに流し、こびりついた便を落とした後に風呂場できれいに洗浄し、ポータブルトイレ自体も雑巾で拭き(※便座の裏が意外と汚れている)、そして母を車椅子からベットに移しおむつを含め全てを着替えさせるついでにほぼ全身をタオルで拭く。
母はここで一旦横になりほとんどの場合そのまま寝てしまう。これがほんとの「ははのんきだね!」。
洗濯機をまわした後、週5日間は何らかのゴミ出しがあるのでその用意をして150メートル程離れたゴミ捨て場に捨てに行く。二日分たまったおむつの重さといったら鉄アレイ並みで、もったいないと冗談まじりにゴミを上げ下げしながら腕の筋トレしながら(笑)おむつアレイだ。
さぁここでやっと一息つけると思ったら、洗濯機が終了の合図。洗濯物を一枚一枚ハンガーに干し、大きなため息と「どっこらしょ」と言いながら今度はほんとにやっと一息。フー
(※しかしこの「どっこらしょ」はいつ頃から言い出したもののだろうか、正直中学ぐらいから言っていたような気もするのだが・・・)

パソコン起ちあげ、メールチェック。今これが外界との唯一の接点。
ほとんどは広告やメルマガなのだが、たまに知り合いから届くメールを発見するとやはり嬉しい。

自分の部屋は二階なのだが、今回数万円出して高性能の無線ナースコールを導入。カードサイズで持ち運びも苦にならず、壁やドアがあってもバッチリ届く(※以前はホームセンターの数千円のものだったのだが反応が悪くすぐに使わなくなってしまいました)。
・小電力型ワイヤレスコールカード発信器
http://www2.panasonic.biz/es/ai/products/search/search?dep=densetsu&c=search&hinban=ECE1702P
・小電力型ワイヤレスコール携帯受信器(本体)(充電台別)
http://www2.panasonic.biz/es/ai/products/search/search?dep=densetsu&c=search&hinban=ECE1611K
※発信器と受信器は通常の組み合わせではありませんが、問題なく使用できます

更に私自身に何かあった時に電話の使い方がおぼつかない母が外部へ連絡できる様にするために電話も交換。
ボタンを押すだけで登録した3件の相手先に順次発信する仕組みです。
・ユニデン デジタルコードレス電話機(子機1台+安心コール1台)
http://www.uniden.jp/products/ct/dect3188c.html
※こちらは残念ながら製造中止品で在庫限りとなります。

と、ここまでで大体9時前後になっています。
時々下へ様子を見に行ったりしながら、お昼までは自分の用事を済ませる時間(※たまに買い物)
だまっていると寝てばかりの母を11時に一回起こし(※昼夜が逆転する傾向があるため)そのままお昼までは起きていてもらうように最近あらためました。
お昼は我が家の伝統で食パン一枚と牛乳とコーヒーのみが通常のメニューで、たまに惣菜ののり巻きだったり夏はソーメンだったり。食後1時ぐらいまではそのまま車椅子で起きていてもらい必要なら着替えさせます。

と少し長くなりましたので続きは次回に。





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「宮戸島復興記録 2011-2013」 ゆふいん文化・記録映画祭にて松川賞受賞 [映画と人生]

嬉しい知らせが飛び込んできました。
足掛け4年越しで撮影してきた「宮戸復興の記録 2011~2013」がゆふいん映画祭のゆふいん文化・記録映画祭の最高賞(松川賞)を受賞しました。

ゆふいん文化・記録映画祭公式ページ
http://movie.geocities.jp/nocyufuin/matsukawa/matsukawaprize7.html

以下は上毛新聞の記事、

ゆふいん映画祭上毛記事01.jpg

縁のあった宮城県東松島市宮戸島の東日本大震災前からその後の復興の様子を記録した作品です。

あの2011/3/11・・・
大地震と津波の被害を報道で見て真っ先に考えたのが宮戸は大丈夫かということでした。

この時の顛末、長くなりますが今回記録の意味も含めもう少し詳細に記しておこうと思います。
(関連プログ、http://pangaea-film.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301424811-3

アムールの飯塚監督達と民族無形文化財「えんずのわり」の撮影で宮城県東松島市宮戸島月浜地区を訪れたのが2010年のこと。最終撮影が2011年2月末に行われたその2週間後にあの東日本大震災が襲いました。ここ千葉でも尋常ではない揺れ方で家が壊れると思いましたし、丁度散歩中だった今は亡き父も思わずその場に座り込んだといいます。
テレビなどの報道でその尋常でない様子を目の当りにし、とにかく行かなければいけないという思いにかられ飯塚監督とも連絡をとりあいながら時期を見計らっていました。
宮戸島というように島ではあるのですが数十メートルの橋一本で本土とつながっていました。その橋が崩落し島に渡る手段がなかったからです。
「えんずのわり」で撮影したあの子供達は・・・ジリジリしながらもやっと「宮戸では死者なし」と聞いてほっとできたことが唯一の救いでした。

震災から約3週間後の3月30・31日、自衛隊によって仮設の橋がかけられたという情報が入り何とか島に渡れるという見込みがつき、文化庁時代から宮戸と縁の深い岡村道雄氏・飯塚監督・私の3名で一路宮戸を目指すことになりました。どうせ行くなら支援物資もと思い、報道などで主食は足りているようなので果物がいいだろうと考え、地震後の流通混乱最中、近所のスーパーに頼み込んでデコポンを3ケース確保してもらい積んでいきました。
往路震災の影響で東北自動車道はあちこちが歪んでいて、普段ならあり得ない段差に何度か車体の腹を打ち付けたことが印象に残っています。

宮戸に入る直前の町に野蒜(のびる)地区があるのですが、ここは高台がなく避難が十分出来ずに500人近くの犠牲が出たとのことで、避難所の体育館まで津波が押し寄せ犠牲者が出たということも後で知りました。その風景は一変し住宅が建ち並んでいたあたりは津波で押し流されぽつぽつと残る住宅も一階部分がひどく破壊されたていました。
津波で水没した地面に重機で土を盛って仮に作られた凸凹の道を行きながらその津波の威力と破壊力に呆然とするしかありませんでした。同年の11月に渋谷昶子監督と訪れた際にはがれき処理の真っ最中で野蒜地域は真っ平らの状態。ふと以前東京大空襲のインタビューを数十人に渡り撮っていたせいでしょうか「空襲」というワードが頭をかすめたことが強烈に印象に残っています。
空襲の焼け野原とはこういうものだったのではなかろうか・・・

仮設橋を渡り宮戸へ入ると最初に通るのが里浜地区になります。道路は至る所で盛り上がり、裂けていて対面通行が出来ない箇所も多くありました。
まずは里浜地区を過ぎ、避難所になっていた宮戸小学校へ。
校庭には自衛隊の車両がひしめき、仮設のお風呂テント、教室と体育館には避難した住民、「えんずのわり」でお世話になった縄文歴史博物館の菅原氏などとも再会。
寒さをしのぐため外で焚き火を囲む人々。玄関には支援の物資が堆く積まれていたので持参した果物を提供。丁度食事時で、デコポンがすぐに使われているのを見てやはり果物で正解だったなと感じました。ただ一人にデコポン8等分ほどしか行き渡らず自分の不備とともに被災者の数の多さを思いました。持参したカメラを出し撮影と思ったのですが、被災した方々にカメラを向けていいものか一瞬躊躇。しかし今撮らなければいつ撮るのだと自分を鼓舞して撮影。ただやはり対象に近付けていないしどこか遠慮がちな画になってしまいました。

移動し月浜地区へ入るとそこは想像を超えた破壊に見舞われていました。



この日は高台にあって被災をまぬがれた民宿へ泊めていただくことに。
もちろん3週間経っていてもライフライン(電気・ガス・水道)は復旧しておらず、コンロを含め持ち込んだ食料と水でしのぐ。
翌日、月浜地区の人々が焚き火を囲んで当面のことについて話あっていたのですが、その時に笑顔がこぼれていたのが印象的でした。区長さんに撮影のお願いをしたところ「変なものに使わないでね」と冗談まじりの笑顔で返されました。話し合いの最中皆にもどこかゆとりさえ感じる笑顔がみられ、家はもちろん生活の全てを流され破壊されながらも笑顔になれる人間の強さに感動しました。
プロパンを使い炊き出しを行い、皆で食べ合うその結束力に心打たれながらカメラをまわし続けるだけしかできない自分でした。
宮戸島で死者が出なかったのはこのコミュニティーの結束力があったからこそでしょう。

岡村氏が宮戸で拠点として借りていた家が隣の大浜地区にあったのでそちらへ移動する。
大浜地区もほぼ全滅状態で浜近くにあった岡村氏の家は300メートルほど内陸へ押し流され無惨ながれきの山と化していました。歩いて移動するしかないのですが近づくにも破壊された家々の残骸には釘などがむき出しになっており足下に注意しながら進まなければなりません。
岡村氏が資料など何点か拾い上げた後に縄文歴史博物館のある里浜地区へ向かいました。
里浜地区は太平洋に対し裏側にあたる集落のせいかほとんど外見的には被害を感じることはありませんでした。ただ近づいてみると津波によってなのでしょう田に軽自動車が転がっていたり、実際に間近で見ると被害が多数出ていて、博物館の展示品などは無惨に床に転がり破壊されていました。
激しい地盤沈下にも見舞われ、排水口のマンホールが地面から数十センチ(おそらく7、80センチだろうか)浮き上がっており(実際は周りが沈んだため)その想像を越えた破壊力に圧倒されるばかりでした。

そして我々はガソリンや自分たちの水や食料にも限りがあるため一旦宮戸を離れたのです。

この時の最大の反省点は前年の「えんずのわり」撮影分のこともあり頭のどこかで勝手に「月浜集落の復興を追う」という固定観念にとらわれてしまい他の集落をきちんと撮影しなかったことです。
大浜地区は若干撮影はしたのですが、視点が違っていましたし、室浜地区に至っては一切撮影せずに帰路についてしまいました。
この時にこうした思い込みや常識にとらわれずに目の前にあるものを記録する姿勢ということの大切さを学びました。

「宮戸復興の記録 2011〜2013」は宮戸・野蒜地域の文化遺産の再生・活用検討実行委員会の映像記録として制作されました。よって現在のところ一般向けの公開は予定されていません。
今回の受賞を期に少しでも多くの方々にみていただければよいのですが・・・



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再会 父のいた時間 [映画と人生]

私の舌癌入院中に起きた父の孤独死から4ヶ月。退院後施設から寝たきりの母を引き取り2人で暮らし始めて1ヶ月半。食事の支度、排泄の世話、着替え、掃除、洗濯、買い物・・・ようやく日々の介護生活にも慣れてきました。
そんなある日、父の衣服を整理しておこうと思い立ち愛用していたジャンバーのポケットに何気なく手を入れると一枚のレシートが出てきました・・・

よく見ると日付は「2014/1/8」・・・

それは父が亡くなった当日の日付。

2014-1-8.jpg

この日はお昼過ぎから雨が降り出す寒い日でした。私も病室の窓から見た暗い雲の光景を今でも覚えています。あのどこか不安な光景・・・

刻印された時間は午前11:16分。

まだ雨は降りだしていない寒さの中、少々ふらつく危ない感じで自転車を漕ぐ父の姿が眼に浮かびます。それはおそらく死を迎える1〜2時間前だったのではないでしょうか。
この日父はいつものように朝ゴミ出しをして(ご近所の方が目撃していたことを後で聞かされました)、母をデイサービスに送り出し、買い物をし、一人で昼食(おそらくレシートにある第一パン一口包み)を食べ、一休みした後に風呂に入ったのでしょう。そして浴槽の中で静かに心臓が鼓動を打つのをやめてしまった・・・
今まで想像でしかなかった父の行動がこのレシートからハッキリと見えてきたのです。

後に母から聞いた話では食卓の上にはお弁当が並べられていたとのこと、それが母の好きだった生姜あさりご飯と自分は和風弁当だったことがレシートから分かります。
父は母がデイサービスから戻った後に二人でこれを食べるつもりだったのです。

父はまさに死の瞬間まで家族を思い確かに生きていたのです。

このたった1枚のレシートで父に再会することができました。
葬式にも四十九日にも出られなかった私が・・・

本当に本当にありがとう、あなたは凄い人です!


タグ:家族 介護 人生
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舌癌になって・・・引っ越しのお知らせ [病]

当記事は作者サイトリニューアルに伴い独立した「白血病闘病記」の一部として生まれ変わりました
引っ越し先は、

http://pangaea.movie.coocan.jp/mukin/

よろしくお願いいたします

2023/3/7
タグ: 舌癌
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追悼 桜塚やっくんのこと [映画と人生]

桜塚やっくん002.jpg

私が撮影で関わった自主映画「イタイ・オモイ」で主演を務めてくれた桜塚やっくん(本名・斎藤恭央さん)が交通事故で亡くなるという悲報が伝えられています。

撮影が2010年でしたからあれから3年。最初にお会いしたのは2010年の6月、本読み・衣装合わせの時でした。スケバン恐子としてのテレビでの活躍は何度か拝見していたので、ああいうキャラを想像していたのですが、実際の御本人は静かで大人しい方でした。役に対し真摯に取組むその姿勢は好感が持てました。

実際撮影の6日間の間もまじめに役に向き合っておられたと思います。
自主映画なのでどうしても待遇の面では恵まれませんが、文句一つ言わず私からの指示にも快く応じてくれました。
まだまだこれからというその時に、御本人も無念のことと思う。

かつて一緒の現場の空気を共有した仲間の一人として御冥福をお祈りすると共に安らかな眠りにつかれん事を願ってやまない。

桜塚やっくん01.jpg

あらためて自主映画「イタイ・オモイ」を紹介させていただきます。





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東宝撮影所と円谷特撮への憧憬 [映画と人生]

前回日本映画撮影監督協会技術委員会主催のジャイロ体験会のお話しをしましが、参加した最大の動機が実は東宝撮影所(※現・東宝スタジオ)に行けるということでした(笑)

今までこの仕事をしてきて、関東圏にある5社(東宝・大映・松竹・日活・東映)スタジオのなかで何故か唯一縁がなかったのがこの東宝だったからです。一番憧れていた撮影所だったのに(笑)

少年時代から数多くの映画を見て来た私ですが、その根幹にあるのはやはり東宝の怪獣映画。
夏休みや冬休みに公開された東宝の怪獣映画をおにぎり持って初回から最低でも2回、時には3回も見ていました。今の様に入れ替え制などないから出来た事ですが、ほぼ半日は劇場の暗闇に浸っていたわけです。
そんな私が憧れたのは特撮監督円谷英二氏。そして東宝撮影所。

File6851.jpgFile6852.jpg

こんな思い出があります。

昭和45年(1970年)私が小学生の頃に円谷氏が亡くなり、翌年小学館から「円谷英二写真集」が発売された事を知りました。
しかし、本屋で注文するも在庫無し。発行部数が極端に少なかったのです。
時既に遅し。しかしあきらめきれなかった私は発行元の小学館へ直接電話、応対していただいた方から「目的が関係者に配る為のもので既に会社にも在庫はない」との返事、がっかりする私に「円谷プロにならまだあるかもしれない」。そしてその方は親切にも円谷プロの連絡先まで教えてくたのです。私の落胆を哀れに思ってくれたのでしょう(笑)
さっそく円谷プロに電話すると「保存用に2冊だけとってある」とのこと。「売ってほしい」と懇願すると「じゃ、直接円谷プロにいらっしゃい」と言ってくれたのです。

日曜日、友達を誘って当時住んでいた川越から世田谷まで。
地図を見ながらたどり着いたのは一見すると普通の住宅のようにも見える建物、しかし巨大なウルトラマンの人形が入口で迎えてくれています。まぎれもなく円谷プロです。
事務所らしき入口で挨拶し、応対してくれた人に来意を告げると用意してくれていた「円谷英二写真集」を渡してくれました。代金を支払い何度もお礼を言って帰ろうとすると、「怪獣倉庫見て行くかい?」と予想もしていなかった言葉を。舞上がりながらも、もちろん好意に甘えさせてもらいました。
事務所の隣にある階段を昇るとそこにはテレビで見た怪獣達がずらっと吊るされている光景が。
小学6年生のその当時カメラなんて持っていなかったので写真は一切ないのですが、40年以上前のことを昨日のことのように鮮明に覚えています。

tsuburaya.jpg
これが42年前の「円谷英二写真集」初版。ケースのパラフィンは自分で貼りました。
当時の価格で2,200円。コーヒー一杯100円の時代なので今だったら1万円以上でしょうか。
今でも私の一番の宝物です(笑)

夢見心地の帰り道、円谷プロダクションは東宝撮影所の近くであることは知っていたので坂道を下っていくとあの独特のかまぼこ型ステージ群が見えてきました。
もちろん中に入る事はできませんので撮影所の外壁沿いを探検するようにわくわくしながら歩いていくと少し傾斜した畑があり、そこからなら撮影所内が良く見えそうな場所を発見。
昇って撮影所の方向に振返るとそこにはあの松林宗恵監督(「連合艦隊」「世界大戦争」)が「特撮の道場」と呼ぶ特撮大プールの光景が広がっていました。
当時東洋一とうたわれた特殊撮影用大プールです。大小の波を起こす波起こし機。見事な曇天の空が一面に描かれた巨大な背景ホリゾント。ここで数々の海戦シーンや怪獣達の海でのシーン、時には実物大の小舟などを浮かべて撮影が行われた伝説のプールが眼前に・・・先程カメラを持っていなかったことを嘆きましたが、もしカメラでパチパチ写真を撮っていたら今ほど鮮明な記憶にはならなかったかもしれません。
少しオーバーかもしれませんが、その光景は今でも私の網膜にしっかりと焼き付いているからです。

大プール01.jpg
これが大プール!(小学館 円谷英二写真集より)

思えばこの体験が、映像の道を目指す事を明確に意識させたのかもしれません。
この数ヶ月のちには近所のカメラ屋のおやじさんから借りたW8の8ミリカメラで飛行機の模型を撮影していたからです。夕陽を背景に飛ぶ模型飛行機、そのショットが私の撮影人生の原点であり出発点となりました。

東宝撮影所こそがまさに夢を作り出す工場。そこから生まれた様々な映画群。黒澤明の「七人の侍」「赤ひげ」、本田・円谷の「ゴジラ」「ラドン」「モスラ」などなど・・
「夢中になれるもの」・・それがあったからこそ今の自分があるのだということを改めて思うのです。
名称は東宝スタジオに変わりましたがこの地が私にとっての「聖地」なのだということはお分かりいただけるのではないでしょうか。

・・・しかしこの大プールが撤去されるという日がやってきてしまいました。
「特撮の灯が消える」・・そんな感傷さえ沸き起こる事態です。時代の流れ・・
元々水は特撮には不向きと言われてきました。通常ミニュチュアが25分の一の縮尺であれば水も25分の一にならねければならないはずですが水の分子を小さくできるわけもなく、ミニチュアと水は相性の悪いものと考えられていたからです。
しかし例え縮尺比率的におかしくてもそれらを越える「何か」がこのプールで描かれてきたのです。
それは見る側の我々も想像力で補っていたからかもしれません。
CGでは何でもリアルに再現されてしまうのでどうしても見る側は受け身一方で見てしまい、想像力を働かせる場面が少なくなってしまった様に感じます。
子供の頃、砂山やお風呂の中にも自由に世界を描ける時期があります。
そんな感性を継承し大切にしたものがアナログ特撮の世界なのかもしれません。

そして「道場」であるプールは失われました・・・


体験会が終わり帰路につこうと所内を歩いていると、小さなプールを発見しました。

東宝小プール03.jpg

大プールに対して小プールと呼ばれたプールです。
このプールには特徴があります。その側面が掘り下げられており、そこの窓から水中の光景を撮影できるように設計されていることです。
「海底軍艦」「緯度0大作戦」、「キングコング対ゴジラ」のシーホーク号の破壊シーンなど、潜水艦の航行や水中の爆発などに使われた伝説のプールです。
実写の疑似水中撮影にも使われたようです。
水中の視界や透過するリアルな光がミニチュアに存在感を与えます。

印象に残っているショットとしては、「サンダ対ガイラ」冒頭で沈没した船舶を捉えたショットを思い出します。水面から差し込む光がユラユラと船の上に光の波を描いていました。

東宝小プール01.jpg
東宝小プール02.jpg

ここに円谷英二監督も立っていた・・・
特撮の夢(映画の夢)が紡がれた貴重な場所なのです。

それはここ東宝撮影所で描かれた夢を見て育った私にとっても・・・

今回の訪問でなんだかパワーをもらった気がします。

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日本映画撮影監督協会 技術委員会主催 「電子制御3軸ジャイロシステムとマルチローター体験会」 [映画と人生]

File6854.jpg

9/24、所属する日本映画撮影監督協会の技術委員会主催「電子制御3軸ジャイロシステムとマルチローター体験会」へ参加するため東宝スタジオ10Stへ行ってきました。

東宝10St.jpg

提供されたのは以下のシステム
MoVI:3軸ジャイロシステム(トーフナ映像株式会社提供)
Colibri:3軸ジャイロシステム(株式会社パーレイ提供)
DJIマルチコプター: S800 ZENMUSE Z15(トーフナ映像株式会社提供)

マルチコプター01.jpg



MoVIはマルチコプターのジャイロシステムを手持ちにて使える様にしたもの。
スティディカムと同様、スタビライズ効果が得られます。
Vincent Laforet氏のテスト動画が有名。

MōVI BTS from Vincent Laforet on Vimeo.



Colibriも同様のドイツ製安定装置。

どれも注目の技術で、大変充実した時間を持てました。
特にマルチコプターは数年前から注目していて、導入を画策していたのですが金銭的な理由で躊躇していました。
ブラシレスモーター制御の3軸ジンバルの登場でコプター空撮は新たなステージに入ったようです。商用利用にも充分な安定性を担保したと思います。

これまで、操縦者の腕や自然条件に左右されがちだったコプター空撮は一気に現実的なものになってきたと感じました。

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EOS 7D HDMIプラグの固定 強化 [キャメラの旅]

数年EOS7Dを使ってきて困ることにHDMIプラグの破損があります。
EOSの場合HDMI信号が排他的な仕様となっているため、外部のモニターや分配器に接続するとどうしても抜き差しが多くなってしまうことも原因のひとつかもしれません。
本体のプラグ形状が小さなタイプC(Type C)となっているためか現場での激しい使用の過程でプラグ自体が破損してしまうことが多々ありました。

そこでプラグ部分を強化することに。

DSC_0279.jpg
タグ:EOS 7D HDMI
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5インチモニターのEVF化 [映画と人生]

5インチモニターをファインダーとして使用できるように簡単ですが作ってみました。
EOS7D使いで老眼の方には朗報です(笑)

Viewfinder02.jpg
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