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「宮戸島復興記録 2011-2013」 ゆふいん文化・記録映画祭にて松川賞受賞 [映画と人生]

嬉しい知らせが飛び込んできました。
足掛け4年越しで撮影してきた「宮戸復興の記録 2011~2013」がゆふいん映画祭のゆふいん文化・記録映画祭の最高賞(松川賞)を受賞しました。

ゆふいん文化・記録映画祭公式ページ
http://movie.geocities.jp/nocyufuin/matsukawa/matsukawaprize7.html

以下は上毛新聞の記事、

ゆふいん映画祭上毛記事01.jpg

縁のあった宮城県東松島市宮戸島の東日本大震災前からその後の復興の様子を記録した作品です。

あの2011/3/11・・・
大地震と津波の被害を報道で見て真っ先に考えたのが宮戸は大丈夫かということでした。

この時の顛末、長くなりますが今回記録の意味も含めもう少し詳細に記しておこうと思います。
(関連プログ、http://pangaea-film.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301424811-3

アムールの飯塚監督達と民族無形文化財「えんずのわり」の撮影で宮城県東松島市宮戸島月浜地区を訪れたのが2010年のこと。最終撮影が2011年2月末に行われたその2週間後にあの東日本大震災が襲いました。ここ千葉でも尋常ではない揺れ方で家が壊れると思いましたし、丁度散歩中だった今は亡き父も思わずその場に座り込んだといいます。
テレビなどの報道でその尋常でない様子を目の当りにし、とにかく行かなければいけないという思いにかられ飯塚監督とも連絡をとりあいながら時期を見計らっていました。
宮戸島というように島ではあるのですが数十メートルの橋一本で本土とつながっていました。その橋が崩落し島に渡る手段がなかったからです。
「えんずのわり」で撮影したあの子供達は・・・ジリジリしながらもやっと「宮戸では死者なし」と聞いてほっとできたことが唯一の救いでした。

震災から約3週間後の3月30・31日、自衛隊によって仮設の橋がかけられたという情報が入り何とか島に渡れるという見込みがつき、文化庁時代から宮戸と縁の深い岡村道雄氏・飯塚監督・私の3名で一路宮戸を目指すことになりました。どうせ行くなら支援物資もと思い、報道などで主食は足りているようなので果物がいいだろうと考え、地震後の流通混乱最中、近所のスーパーに頼み込んでデコポンを3ケース確保してもらい積んでいきました。
往路震災の影響で東北自動車道はあちこちが歪んでいて、普段ならあり得ない段差に何度か車体の腹を打ち付けたことが印象に残っています。

宮戸に入る直前の町に野蒜(のびる)地区があるのですが、ここは高台がなく避難が十分出来ずに500人近くの犠牲が出たとのことで、避難所の体育館まで津波が押し寄せ犠牲者が出たということも後で知りました。その風景は一変し住宅が建ち並んでいたあたりは津波で押し流されぽつぽつと残る住宅も一階部分がひどく破壊されたていました。
津波で水没した地面に重機で土を盛って仮に作られた凸凹の道を行きながらその津波の威力と破壊力に呆然とするしかありませんでした。同年の11月に渋谷昶子監督と訪れた際にはがれき処理の真っ最中で野蒜地域は真っ平らの状態。ふと以前東京大空襲のインタビューを数十人に渡り撮っていたせいでしょうか「空襲」というワードが頭をかすめたことが強烈に印象に残っています。
空襲の焼け野原とはこういうものだったのではなかろうか・・・

仮設橋を渡り宮戸へ入ると最初に通るのが里浜地区になります。道路は至る所で盛り上がり、裂けていて対面通行が出来ない箇所も多くありました。
まずは里浜地区を過ぎ、避難所になっていた宮戸小学校へ。
校庭には自衛隊の車両がひしめき、仮設のお風呂テント、教室と体育館には避難した住民、「えんずのわり」でお世話になった縄文歴史博物館の菅原氏などとも再会。
寒さをしのぐため外で焚き火を囲む人々。玄関には支援の物資が堆く積まれていたので持参した果物を提供。丁度食事時で、デコポンがすぐに使われているのを見てやはり果物で正解だったなと感じました。ただ一人にデコポン8等分ほどしか行き渡らず自分の不備とともに被災者の数の多さを思いました。持参したカメラを出し撮影と思ったのですが、被災した方々にカメラを向けていいものか一瞬躊躇。しかし今撮らなければいつ撮るのだと自分を鼓舞して撮影。ただやはり対象に近付けていないしどこか遠慮がちな画になってしまいました。

移動し月浜地区へ入るとそこは想像を超えた破壊に見舞われていました。



この日は高台にあって被災をまぬがれた民宿へ泊めていただくことに。
もちろん3週間経っていてもライフライン(電気・ガス・水道)は復旧しておらず、コンロを含め持ち込んだ食料と水でしのぐ。
翌日、月浜地区の人々が焚き火を囲んで当面のことについて話あっていたのですが、その時に笑顔がこぼれていたのが印象的でした。区長さんに撮影のお願いをしたところ「変なものに使わないでね」と冗談まじりの笑顔で返されました。話し合いの最中皆にもどこかゆとりさえ感じる笑顔がみられ、家はもちろん生活の全てを流され破壊されながらも笑顔になれる人間の強さに感動しました。
プロパンを使い炊き出しを行い、皆で食べ合うその結束力に心打たれながらカメラをまわし続けるだけしかできない自分でした。
宮戸島で死者が出なかったのはこのコミュニティーの結束力があったからこそでしょう。

岡村氏が宮戸で拠点として借りていた家が隣の大浜地区にあったのでそちらへ移動する。
大浜地区もほぼ全滅状態で浜近くにあった岡村氏の家は300メートルほど内陸へ押し流され無惨ながれきの山と化していました。歩いて移動するしかないのですが近づくにも破壊された家々の残骸には釘などがむき出しになっており足下に注意しながら進まなければなりません。
岡村氏が資料など何点か拾い上げた後に縄文歴史博物館のある里浜地区へ向かいました。
里浜地区は太平洋に対し裏側にあたる集落のせいかほとんど外見的には被害を感じることはありませんでした。ただ近づいてみると津波によってなのでしょう田に軽自動車が転がっていたり、実際に間近で見ると被害が多数出ていて、博物館の展示品などは無惨に床に転がり破壊されていました。
激しい地盤沈下にも見舞われ、排水口のマンホールが地面から数十センチ(おそらく7、80センチだろうか)浮き上がっており(実際は周りが沈んだため)その想像を越えた破壊力に圧倒されるばかりでした。

そして我々はガソリンや自分たちの水や食料にも限りがあるため一旦宮戸を離れたのです。

この時の最大の反省点は前年の「えんずのわり」撮影分のこともあり頭のどこかで勝手に「月浜集落の復興を追う」という固定観念にとらわれてしまい他の集落をきちんと撮影しなかったことです。
大浜地区は若干撮影はしたのですが、視点が違っていましたし、室浜地区に至っては一切撮影せずに帰路についてしまいました。
この時にこうした思い込みや常識にとらわれずに目の前にあるものを記録する姿勢ということの大切さを学びました。

「宮戸復興の記録 2011〜2013」は宮戸・野蒜地域の文化遺産の再生・活用検討実行委員会の映像記録として制作されました。よって現在のところ一般向けの公開は予定されていません。
今回の受賞を期に少しでも多くの方々にみていただければよいのですが・・・



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再会 父のいた時間 [映画と人生]

私の舌癌入院中に起きた父の孤独死から4ヶ月。退院後施設から寝たきりの母を引き取り2人で暮らし始めて1ヶ月半。食事の支度、排泄の世話、着替え、掃除、洗濯、買い物・・・ようやく日々の介護生活にも慣れてきました。
そんなある日、父の衣服を整理しておこうと思い立ち愛用していたジャンバーのポケットに何気なく手を入れると一枚のレシートが出てきました・・・

よく見ると日付は「2014/1/8」・・・

それは父が亡くなった当日の日付。

2014-1-8.jpg

この日はお昼過ぎから雨が降り出す寒い日でした。私も病室の窓から見た暗い雲の光景を今でも覚えています。あのどこか不安な光景・・・

刻印された時間は午前11:16分。

まだ雨は降りだしていない寒さの中、少々ふらつく危ない感じで自転車を漕ぐ父の姿が眼に浮かびます。それはおそらく死を迎える1〜2時間前だったのではないでしょうか。
この日父はいつものように朝ゴミ出しをして(ご近所の方が目撃していたことを後で聞かされました)、母をデイサービスに送り出し、買い物をし、一人で昼食(おそらくレシートにある第一パン一口包み)を食べ、一休みした後に風呂に入ったのでしょう。そして浴槽の中で静かに心臓が鼓動を打つのをやめてしまった・・・
今まで想像でしかなかった父の行動がこのレシートからハッキリと見えてきたのです。

後に母から聞いた話では食卓の上にはお弁当が並べられていたとのこと、それが母の好きだった生姜あさりご飯と自分は和風弁当だったことがレシートから分かります。
父は母がデイサービスから戻った後に二人でこれを食べるつもりだったのです。

父はまさに死の瞬間まで家族を思い確かに生きていたのです。

このたった1枚のレシートで父に再会することができました。
葬式にも四十九日にも出られなかった私が・・・

本当に本当にありがとう、あなたは凄い人です!


タグ:家族 介護 人生
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追悼 桜塚やっくんのこと [映画と人生]

桜塚やっくん002.jpg

私が撮影で関わった自主映画「イタイ・オモイ」で主演を務めてくれた桜塚やっくん(本名・斎藤恭央さん)が交通事故で亡くなるという悲報が伝えられています。

撮影が2010年でしたからあれから3年。最初にお会いしたのは2010年の6月、本読み・衣装合わせの時でした。スケバン恐子としてのテレビでの活躍は何度か拝見していたので、ああいうキャラを想像していたのですが、実際の御本人は静かで大人しい方でした。役に対し真摯に取組むその姿勢は好感が持てました。

実際撮影の6日間の間もまじめに役に向き合っておられたと思います。
自主映画なのでどうしても待遇の面では恵まれませんが、文句一つ言わず私からの指示にも快く応じてくれました。
まだまだこれからというその時に、御本人も無念のことと思う。

かつて一緒の現場の空気を共有した仲間の一人として御冥福をお祈りすると共に安らかな眠りにつかれん事を願ってやまない。

桜塚やっくん01.jpg

あらためて自主映画「イタイ・オモイ」を紹介させていただきます。





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東宝撮影所と円谷特撮への憧憬 [映画と人生]

前回日本映画撮影監督協会技術委員会主催のジャイロ体験会のお話しをしましが、参加した最大の動機が実は東宝撮影所(※現・東宝スタジオ)に行けるということでした(笑)

今までこの仕事をしてきて、関東圏にある5社(東宝・大映・松竹・日活・東映)スタジオのなかで何故か唯一縁がなかったのがこの東宝だったからです。一番憧れていた撮影所だったのに(笑)

少年時代から数多くの映画を見て来た私ですが、その根幹にあるのはやはり東宝の怪獣映画。
夏休みや冬休みに公開された東宝の怪獣映画をおにぎり持って初回から最低でも2回、時には3回も見ていました。今の様に入れ替え制などないから出来た事ですが、ほぼ半日は劇場の暗闇に浸っていたわけです。
そんな私が憧れたのは特撮監督円谷英二氏。そして東宝撮影所。

File6851.jpgFile6852.jpg

こんな思い出があります。

昭和45年(1970年)私が小学生の頃に円谷氏が亡くなり、翌年小学館から「円谷英二写真集」が発売された事を知りました。
しかし、本屋で注文するも在庫無し。発行部数が極端に少なかったのです。
時既に遅し。しかしあきらめきれなかった私は発行元の小学館へ直接電話、応対していただいた方から「目的が関係者に配る為のもので既に会社にも在庫はない」との返事、がっかりする私に「円谷プロにならまだあるかもしれない」。そしてその方は親切にも円谷プロの連絡先まで教えてくたのです。私の落胆を哀れに思ってくれたのでしょう(笑)
さっそく円谷プロに電話すると「保存用に2冊だけとってある」とのこと。「売ってほしい」と懇願すると「じゃ、直接円谷プロにいらっしゃい」と言ってくれたのです。

日曜日、友達を誘って当時住んでいた川越から世田谷まで。
地図を見ながらたどり着いたのは一見すると普通の住宅のようにも見える建物、しかし巨大なウルトラマンの人形が入口で迎えてくれています。まぎれもなく円谷プロです。
事務所らしき入口で挨拶し、応対してくれた人に来意を告げると用意してくれていた「円谷英二写真集」を渡してくれました。代金を支払い何度もお礼を言って帰ろうとすると、「怪獣倉庫見て行くかい?」と予想もしていなかった言葉を。舞上がりながらも、もちろん好意に甘えさせてもらいました。
事務所の隣にある階段を昇るとそこにはテレビで見た怪獣達がずらっと吊るされている光景が。
小学6年生のその当時カメラなんて持っていなかったので写真は一切ないのですが、40年以上前のことを昨日のことのように鮮明に覚えています。

tsuburaya.jpg
これが42年前の「円谷英二写真集」初版。ケースのパラフィンは自分で貼りました。
当時の価格で2,200円。コーヒー一杯100円の時代なので今だったら1万円以上でしょうか。
今でも私の一番の宝物です(笑)

夢見心地の帰り道、円谷プロダクションは東宝撮影所の近くであることは知っていたので坂道を下っていくとあの独特のかまぼこ型ステージ群が見えてきました。
もちろん中に入る事はできませんので撮影所の外壁沿いを探検するようにわくわくしながら歩いていくと少し傾斜した畑があり、そこからなら撮影所内が良く見えそうな場所を発見。
昇って撮影所の方向に振返るとそこにはあの松林宗恵監督(「連合艦隊」「世界大戦争」)が「特撮の道場」と呼ぶ特撮大プールの光景が広がっていました。
当時東洋一とうたわれた特殊撮影用大プールです。大小の波を起こす波起こし機。見事な曇天の空が一面に描かれた巨大な背景ホリゾント。ここで数々の海戦シーンや怪獣達の海でのシーン、時には実物大の小舟などを浮かべて撮影が行われた伝説のプールが眼前に・・・先程カメラを持っていなかったことを嘆きましたが、もしカメラでパチパチ写真を撮っていたら今ほど鮮明な記憶にはならなかったかもしれません。
少しオーバーかもしれませんが、その光景は今でも私の網膜にしっかりと焼き付いているからです。

大プール01.jpg
これが大プール!(小学館 円谷英二写真集より)

思えばこの体験が、映像の道を目指す事を明確に意識させたのかもしれません。
この数ヶ月のちには近所のカメラ屋のおやじさんから借りたW8の8ミリカメラで飛行機の模型を撮影していたからです。夕陽を背景に飛ぶ模型飛行機、そのショットが私の撮影人生の原点であり出発点となりました。

東宝撮影所こそがまさに夢を作り出す工場。そこから生まれた様々な映画群。黒澤明の「七人の侍」「赤ひげ」、本田・円谷の「ゴジラ」「ラドン」「モスラ」などなど・・
「夢中になれるもの」・・それがあったからこそ今の自分があるのだということを改めて思うのです。
名称は東宝スタジオに変わりましたがこの地が私にとっての「聖地」なのだということはお分かりいただけるのではないでしょうか。

・・・しかしこの大プールが撤去されるという日がやってきてしまいました。
「特撮の灯が消える」・・そんな感傷さえ沸き起こる事態です。時代の流れ・・
元々水は特撮には不向きと言われてきました。通常ミニュチュアが25分の一の縮尺であれば水も25分の一にならねければならないはずですが水の分子を小さくできるわけもなく、ミニチュアと水は相性の悪いものと考えられていたからです。
しかし例え縮尺比率的におかしくてもそれらを越える「何か」がこのプールで描かれてきたのです。
それは見る側の我々も想像力で補っていたからかもしれません。
CGでは何でもリアルに再現されてしまうのでどうしても見る側は受け身一方で見てしまい、想像力を働かせる場面が少なくなってしまった様に感じます。
子供の頃、砂山やお風呂の中にも自由に世界を描ける時期があります。
そんな感性を継承し大切にしたものがアナログ特撮の世界なのかもしれません。

そして「道場」であるプールは失われました・・・


体験会が終わり帰路につこうと所内を歩いていると、小さなプールを発見しました。

東宝小プール03.jpg

大プールに対して小プールと呼ばれたプールです。
このプールには特徴があります。その側面が掘り下げられており、そこの窓から水中の光景を撮影できるように設計されていることです。
「海底軍艦」「緯度0大作戦」、「キングコング対ゴジラ」のシーホーク号の破壊シーンなど、潜水艦の航行や水中の爆発などに使われた伝説のプールです。
実写の疑似水中撮影にも使われたようです。
水中の視界や透過するリアルな光がミニチュアに存在感を与えます。

印象に残っているショットとしては、「サンダ対ガイラ」冒頭で沈没した船舶を捉えたショットを思い出します。水面から差し込む光がユラユラと船の上に光の波を描いていました。

東宝小プール01.jpg
東宝小プール02.jpg

ここに円谷英二監督も立っていた・・・
特撮の夢(映画の夢)が紡がれた貴重な場所なのです。

それはここ東宝撮影所で描かれた夢を見て育った私にとっても・・・

今回の訪問でなんだかパワーをもらった気がします。

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日本映画撮影監督協会 技術委員会主催 「電子制御3軸ジャイロシステムとマルチローター体験会」 [映画と人生]

File6854.jpg

9/24、所属する日本映画撮影監督協会の技術委員会主催「電子制御3軸ジャイロシステムとマルチローター体験会」へ参加するため東宝スタジオ10Stへ行ってきました。

東宝10St.jpg

提供されたのは以下のシステム
MoVI:3軸ジャイロシステム(トーフナ映像株式会社提供)
Colibri:3軸ジャイロシステム(株式会社パーレイ提供)
DJIマルチコプター: S800 ZENMUSE Z15(トーフナ映像株式会社提供)

マルチコプター01.jpg



MoVIはマルチコプターのジャイロシステムを手持ちにて使える様にしたもの。
スティディカムと同様、スタビライズ効果が得られます。
Vincent Laforet氏のテスト動画が有名。

MōVI BTS from Vincent Laforet on Vimeo.



Colibriも同様のドイツ製安定装置。

どれも注目の技術で、大変充実した時間を持てました。
特にマルチコプターは数年前から注目していて、導入を画策していたのですが金銭的な理由で躊躇していました。
ブラシレスモーター制御の3軸ジンバルの登場でコプター空撮は新たなステージに入ったようです。商用利用にも充分な安定性を担保したと思います。

これまで、操縦者の腕や自然条件に左右されがちだったコプター空撮は一気に現実的なものになってきたと感じました。

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5インチモニターのEVF化 [映画と人生]

5インチモニターをファインダーとして使用できるように簡単ですが作ってみました。
EOS7D使いで老眼の方には朗報です(笑)

Viewfinder02.jpg
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涼宮ハルヒの消失 を観て [映画と人生]

「涼宮ハルヒの消失」(2010年公開)という劇場用アニメーション作品を見る機会がありました。

実に切ないお話で久々感慨深い作品となりました。
その感動をお伝えしたく拙い文章ではありますがここに記しておきたいと思います。
ここでひとつ申し添えておきたいのが、私は谷川流氏の原作にはまったく触れていない事、つまりテレビシリーズとこの劇場版のみからの感想となるということです。

劇場版「涼宮ハルヒの消失」の物語は長門有希に生まれてしまったある「感情」が発端となっています。
そしてそこにはテレビシリーズで描かれたSOS団の面々との日々が多大に影響しています。
ですからこのテレビシリーズ28話を見ておくことが「消失」をより深く理解する為には必要だなと感じました。
劇場版ではこのテレビシリーズでのSOS団との日々の中で”バグ”が蓄積、やがて有希を異常動作させ世界の”改変”行為へと導きます。

ではその”バグ”とは・・・
長門有希とは、”情報統合思念体”なる存在から涼宮ハルヒの観察と報告を主目的に作られた”対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース”。つまりロボットやアンドロイドのような存在です。
ハルヒが”陽”であるとすれば有希は”陰”。
陰(影)の様であり、その特異能力によって団員達にふりかかる様々な問題を解決していく存在ではあるが普段は文芸部に残った最後の部員として部室で独り本を読む毎日を送っている。読書本もユニークで筒井康隆「虚構船団」、村上春樹「「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」、早川書房「世界SF全集」、ダン・シモンズ「ハイペリオン」四部作などがあり実際に本作にも描き込まれている。
会話も”原稿用紙一行以上の言葉は発しない”というほど無口でおとなしい無表情な眼鏡少女。それが長門有希だったのです。
そんな有希がSOS団の”仲間”達と共に不思議探しツアーや、七夕を祝ったり、合宿へ行ったり、夏休みを過ごしたり、自主映画を作ったり、文化祭で演奏したり・・・
普通の高校生のような生活。今まで無縁だった生活。
特にキョンはハルヒに対しての理解者およびイレギュラー因子として有希には認識されていたが、そうした日々の中でキョンから投げかけられる言葉や有希自らが発信するやりとりから芽生えた特別な「感情」。
キョンと有希の交流は、
・キョンが有希に作ってあげた図書カード(涼宮ハルヒの憂鬱Ⅲ)、
・朝倉涼子の暴走からキョンを守るための壮絶な闘いの後に自分の眼鏡を再構成し忘れた有希にキョンが言う、「(眼鏡を)してないほうが可愛いと思うぞ」(涼宮ハルヒの憂鬱Ⅳ)。有希は翌日から眼鏡をかけなくなる。
・”閉鎖空間”へ迷い込んだハルヒとキョン。そんなキョンに有希はパソコンを通じて救いのメッセージを送る。
「YUKI.N>わたしという個体もあなたには戻ってきて欲しいと感じている_」
YUKI.N>また図書館に_」(第6話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」)
・ハルヒのせいで高1の夏休みを延々15532回 595年分も繰り返すはめになった時有希独りだけはその15532回 595年分の記憶を持ち皆に寄り添うことになるが、キョンはそんな長門を見て「長門、やはりお前にもあるのだろうか”独りでいることが寂しい”と思う事が」と・・・(第9話「ミステリックサイン」)
これらの事が積み重なり有希にとってのキョンは次第に”大切な人”へと変わっていきます。
有希の中に育ち始めるキョンへの思い、それは”対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース”としての有希の中の小さな”バグ”として蓄積して行きやがて飽和状態となってしまいます。そしてとうとうある日世界そのものを改変させてしまいます。
その世界とは、「有希がキョンとともに生きる世界」。「有希が望んだ世界」。

身も蓋もない言い方になるかもしれませんが、この「消失」の物語は「ハルヒという友人の彼氏を好きになってしまった少女」のお話として捉えると全体をすっきりと見渡せるような気がします。特異な存在であるが故の孤独の中、叶わないと知りながら「思い」を積み重ねてゆく有希が犯してしまった暴走、世界改変・・・
改変後の世界にハルヒの姿はなく、有希は極端に恥ずかしがり屋の少女として表情も会話もつくれるようになっているのです。
そしてぎこちなくではありますが、キョンへの思いを表現するのです。
有希の部屋からの帰り際に見せた有希のぎこちない笑顔。キョンは驚愕と言ってもいい表情をします。
世界改変の認識をあらたにすると共に、エピローグへの伏線となっているのではないでしょうか。

しかし有希の中に残る罪悪感からか、自身が仕掛けたプログラムにより最終選択をキョンに委ねてしまいます。
ハルヒとの世界か、有希との世界か・・・
そしてキョンはハルヒのいる世界への帰還を選択してしまいます。つまり有希の思いは達成できなかったのです。

こうして長門有希という少女の思いを描いた夢は消えてしまいます。
終盤、病院屋上でキョンと有希二人へ降る雪。手元で消えてしまう雪がその儚さを表しています。

そして・・・願いは叶わなかったけれどキョンの優しさと友情をあらためて再確認した有希が言います、「ありがとう」と・・・
元の世界に戻ってしまったことで有希の思いは遂げることができませんでしたが、有希の中にはまたあらたな”希望”が生まれたのではないでしょうか。

エピローグは図書館。独り有希が本を読んでいる側で小さな少年が同じく少女に図書カードを作ってあげている光景です。
有希はその二人を見つめながらそっと本で口元を隠します。きっと笑顔になってしまったのではないでしょうか。
それはキョンや仲間からの贈り物。元の世界でそれまで決して表情を変えなかった有希にそっと芽生えた「感情」なのではないでしょうか。

その口元を隠している本がジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「たったひとつの冴えたやりかた」。
この本の物語が「異星人との友情」をテーマにしていることは有希の心境を語るものになっていたのではないでしょうか。
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「涼宮ハルヒの消失」はとても心に残る作品となりました。



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特撮博物館 見聞記 [映画と人生]

少し前になるが友人達と「館長庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」を見に行ってきました。

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日本のお家芸ともいえる特撮(特にミニチュア特撮)をテーマにした展示です。
過去にこれほどの資料を展示したものは皆無だったと思います。
円谷特撮や東宝特撮はもちろん様々な特撮テレビのミニチュアの実物が展示されています。今回写真はありませんが特にマイティ号とメカゴジラ2は圧巻でした。
そしてこの催しに合わせて創られた特撮短編映画「巨神兵、東京に現わる」は必見です。

特撮博物館でもこれら子供時代に観た特撮作品の数々が多数展示されていて、実に懐かしくそして胸熱くなる数時間でした。
「モスラ」の東京タワー/「日本沈没」のわだつみ/「マグマ大使」のロケット/「マイティージャック」のマイティー号/「ウルトラマン」のジェットビートル/等々・・・

少年マガジンの巻頭特集などで解説されていた特撮映画の舞台裏などの記事をわくわくしながら読んでいたあの頃。憧れなどという生易しいものではなく思慕、称嘆していた特撮の現場。

「特撮」という言葉が懐かしく感じられるほど今はほとんどがCGやポスプロ作業での効果に置き換えられてきています。最近富士フィルムが映画用フィルムの生産中止を発表したように、これら映画の遺産は失われていく運命なのでしょうか。
CGに比べてリアルでないことは認めますが、特撮には人が作り出した温もりがあります。
これはCGでは出せない味なのではないでしょうか。

正直に言うと、社会に出た当初は特撮に関わる仕事が望みだったのですがそれはかないませんでした。
しかし映像キャメランとなったことで、有川貞昌氏(特殊撮影・特技監督) 中野稔氏(合成) 大岡新一氏(撮影・現円谷プロ代表取締役社長) 玉井正夫氏(「ゴジラ」本編撮影)稲垣涌三氏(怪奇大作戦実相寺作品の撮影)にお会いする事ができました。特に中野稔氏からは興味深いお話を数多く聞く事ができました。これらは今でも私の財産となっています。

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原田芳雄さん(映画「出張」)の思い出 [映画と人生]

原田さんの突然の訃報にただただ驚いております。
また一人アクの強い俳優さんがいなくなってしまいました。

私が原田さんと御一緒させていただいた作品は、

「出張」 1989年 沖島勳 監督作品 ・ 撮影 大津幸四郎
「眠れる美女」 1995年 横山博人 監督作品 ・ 撮影 羽方義昌

の2本です。

私は両作ともに撮影者ではなく撮影助手のチーフという立場での関わりました。

両作品とも思い出深いのですが、特に「出張」はピンク映画に毛が生えたぐらいの予算(失礼!)だったこともあり、その低予算であるがための忘れられないエピソードがあります。

IMG04.jpg
前列に原田芳雄さん、石橋蓮司さん。前列左から二人目白い帽子が監督沖島勳氏、前列カメラを抱えているのが大津幸四郎氏、画面一番右が「釘と靴下の対話」の平野克己氏
中央付銃を構えている人物後ろで手を組んでいるのが私
※写真に掲載されている方で何か問題のある方はこちらhttp://pangaea.movie.coocan.jp/index.htmlを通して御連絡ください。すぐに対処いたします。



「出張」の粗筋ははこちらで、
http://movie.goo.ne.jp/movies/p18131/story.html

この「出張」は東京都内と山形の2ヶ所で主に撮影された作品です。
山形のある温泉近くの空き地にゲリラ組織の基地を作り、そこで一週間ほどロケを行ったときのことです。
ある日電車事故で身動きがとれなくなったサラリーマンが途中下車した先で、今も国家権力壊滅の為に闘うゲリラの人質になってしまうというストーリーです。
原田さんはこの何だかよく分からない(笑)ゲリラ組織の隊長役です。
現場的には限られた時間内で昼のシーンもナイトシーンも撮りきらなければならない強行スケジュールでした。
この時スタッフは近くの木造の古い崩れそうな湯治場に宿泊していたのですがそんなハードスケジュールですからまともに寝る時間などははほとんどありませんでした。
余談ですが、私などはあまりの寝不足のせいで宿に帰る車から前方の木々に人の首がぶらさがって笑っている幻覚を見たほどです(笑)
それから宿が自家発電のため夜はたしか9時ぐらいで電気の供給が止まってしまいナイトロケを終えて宿に帰っても電気シェーバーを持参していた私は髭を剃ることができず、仕方ないのでそのままのばし続けたら結構周りの評判がよくそのままのばし続けて20年過ぎてしまいました。(※現在は2006年の病気をきっかけにひげは生やしていない)

一方キャストの方々は原田さん含め少し離れた温泉街の旅館に宿泊されていたと記憶しています。
原田さんはこの時日産のサファリでマネージャーの方と現場まで毎日通っておられました。
そして待ち時間等の会話の中でそのサファリが買ったばかりの新車だということが分かりました。当時は車の選択まで原田さんらしさを感じたものです。
それまで教育映画や記録映画の仕事が多かった私にとっては役者「原田芳雄」と言えばそれまでスクリーンで観られる言わば雲の上の人でしたし、今作の主演石橋蓮司さんや松尾嘉代さん、亜湖さんなどの役者さん達と仕事していることだけでも私は幸せだったのです。
原田さんはスタッフ、キャスト誰とでも気さくに話される方でした。待ち時間の時など若い制作進行さんなどをかわいがっておられたのが印象に残っています。
これは今作が小規模で家族的な体制だったせいもあるのかもしれません。
ある時など原田さんが待ち時間を利用して制作の若者と一緒に全員の夜食としてカレーまで作ってくれたこともありました。
そうやって寝不足で皆フラフラになりながらも何とか撮影は進行していったのですが、ある日大事件が起きます。
その日も昼の撮影が終わり、いつものゲリラ基地のナイトシーンの撮影をしていました。撮影自体は特に問題もなく進行していたその時・・・「ドーン」という轟音とともに巨大な火柱が上がったのです。
見れば火柱の上がったのはいつも制作進行さんが夜食作ったりしている少し離れた林の向こう側です。火柱はおおよそ5、6メートルは上がったのではないかという勢いで、かなり背の高い木の枝が燃えそうな勢いです。いや実際に燃え始めています。
スタッフ、キャスト一同が騒然となりました。
「早く消せー!」と怒号が飛び交います。その直後ですカメラの前で今の今まで芝居をしていた原田さんが勢い良く起ち上がったか思うと「○○(マネージャーの名)早く車を動かせ!」と怒鳴りながら一目散に愛車に向かって走って行くのです。
原田さんの新車サファリはこの火柱の側に駐車してあったのです。
大変失礼な言い方かもしれませんが、この時私は原田さんも我々と同じ人間なんだなぁーと感じたのです。決して雲の上の存在などではなく同じ生活者としての「原田芳雄」を見たと。
さて火柱の原因ですが、制作進行さんが焚き火にお湯を沸かそうとかけたやかんが原因でした。連日の強行撮影で朦朧としていた彼は、水の入ったやかんではなく照明用発電機の為に用意されていたガソリン入りやかんを火にをかけてしまったのです。
そりゃー爆発もします(笑)
彼はガソリン入りのやかんがあることはわかっていたようですが、連日の疲れが出たのでしょう・・・
さて原田さんの車ですが、原田さんとマネージャー氏の素早い対応で無事火柱から避難することができ事なきを得ました。
失礼かもしれませんがこの時の原田さんの慌てぶりが親しみやすい「人間・原田芳雄」を垣間見せてくれた瞬間だったと懐かしく思い出されます。

今回の突然の訃報に驚き、その存在感の大きさをあらためて知らされました。
役者「原田芳雄」は間違いなく日本映画さ支えた名優だったと思います。

一ファンとしてその素晴らしい演技の数々をこれからもスクリーンの中で拝見し続けたいと思います。
御冥福をお祈りいたします。



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Austriaオーストリアへの旅 [映画と人生]

久々にこのブログ本来のテーマに戻ってきました(笑)

今から20年近く前だったでしょうか・・・
車のコマーシャル撮影でドイツのミュンヘン→オーストリアのグロスグロックナー→ウィーンへと巡ったことがあります。

ミュンヘンでの撮影を終え、現地で雇ったセカンドアシスタントと二人機材車で移動します。
お互いに英語は辿々しいのですが楽しいドライブです。
やがて国境を越えると道はきびしいカーブの連続になります。

予断ですがこの時走行中にブレーキを使いすぎて「フェード現象」が起きてしまった時は「もう駄目だ!」と思いました
運転していたドイツのアシスタントさんがブレーキを何度も踏みながら叫んでいます。
しかし車はスピードが落ちるどころかグングン加速していきます。
幸い、下りの先に広い駐車スペースがありそこの土壁に車を横当てして何とか停まったのですが(笑)

この旅で一番印象深かったのがここグロスグロックナー(Großglockner)。
オーストリア国内最高峰の山です。

Austria_0003.jpg

まるでハイジの世界がそこにありました(笑)

Austria_0004.jpg

泊まったホテルは瀟洒な山小屋風で(さすがにベットはワラではありません(*>▽<*))、すぐ脇には氷河がよこたわっているという環境です。

Austria_0002.jpg

このホテルでもサプライズがありました。
当時のドイツ首相のコール氏が同じホテルに泊まっていたのです。
お忍びということらしく、ものものしい警備等一切ありません。
ロビーに居る時周りがざわついたので何事かと見ると、皆ある人物に道を空けて最敬礼しています。
後で「あれはドイツのコール首相だ」と聞いてビックリです。

この時は山道を走行する商品車を撮影に来たのですが、なかなか撮影に向く天候になってくれません。
車の撮影では常識ですが、晴れではなく曇りをねらいます。
ボディに強い太陽の反射を受けてしまうと本来のボディの持つ美しさを損ねてしまうからです。
ウェスカムという空撮用防振装置とオペレーター2名をアメリカから呼んでいたのでプロデューサーも気が気ではなかったでしょう。

Austria_0001.jpg

2、3日の予定が一週間近く延びたと記憶しています。

そしてどうにか撮影をむかえました。
走行するワインディングは2、3キロですが、前後に車を入れたくないという意図から5、6キロの前後で全ての車をストップさせての撮影です。

後で聞いたのですが、車を止められた人達は撮影だと聞くと皆快く待っていてくれたそうです。

それからこの時のオーストリアでのコーディネイトをしてくれた人物が過去に「サウンド・オブ・ミュージック」にも関わっていたことを聞いた時は何故か嬉しくなりました。



作者H.P. : http://pangaea.movie.coocan.jp/index.html



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